片山右京、1992年の後悔
ハングリーな少年は成長し、多くの少年が憧れるスターになった。1992年、日本人として2人目のF1正ドライバーとなった片山氏は、難病の子どもたちの夢を叶えるMake a Wishプロジェクトに呼ばれる。
「右京さんに会いたい」。レーサーを夢見てカートで戦っていたものの、白血病に侵された少年からの願いだった。
ベッドサイドで片山氏は、闘病する少年に苦労した自分の過去を重ね合わせて語りかけた。
「人間には奇跡が起きる。治癒能力も持っている。絶対に諦めちゃダメだ」。
後日、日本グランプリの閉幕後に少年の母がやってきた。
「息子は昨日他界しました。肺に溜まった水をポンプで抜きながら最期まで頑張りました。医師から呼ばれた最後の枕元で言いました。『僕はもう死ぬけど、病気で死ぬんじゃない。痛くて、もう我慢できなくて、諦めて死んでしまう。だからこのことを片山さんに謝っておいて』」。
片山氏を後悔が襲った。
「俺はなんて馬鹿なことを言ってしまったんだ。医者でもなければ神様でもない。嘘をつくつもりはなかった。でも…」
翌年に同プロジェクトで骨肉腫と戦う自転車ライダーの少年にも出会った。工場長と殴り合い、ライバルに暴言を吐き、悔しさや苛立ちにシャツを破り捨てた荒々しさは、この頃消えたという。
「自分のためであることは変わりません。でも、人には言葉があるから分かり合える。逆に、言葉を重ねることしかできない。そう思うようになってからは怒らなくなりました。年齢を重ねるうちに、たとえばゴミを拾ったり、募金をしたりといった行為が、回りまわって人に助けてもらったり、運勢を上げることがわかってきました」。
残る口惜しさとひとつのプライド
1994年のサンマリノGPとヨーロッパGP、1995年のベルギーGPとモナコGP。片山氏が記憶に残っているとして挙げたF1のレースには、悔しい思い出が多かった。
「セナとラッツェンバーガーの死はどうしても印象に残ります。他にはスタートでエンジンストールした1994年のヨーロッパGP。最後尾から追い上げて、最終ラップの最終コーナーでハラルド・フレンツェンを捉えました。前でチェッカーを受ければ6位入賞。でも立ち上がりの加速で抜き返されて7位でした。
雨の1995年ベルギーGPではスリックタイヤで3位まで追い上げたのに、セーフティカーでタイヤが冷えてスピン。1995年のモナコGPではファステストを出しながら6位で追い上げていたのにスピン」。
それでも、今なお誇りになっているというレースが1994年のヨーロッパGP、シルバーストーンだ。決勝は7位(のちの繰り上げで6位)と自身最高成績ではなかったものの、「完璧なレース運びができた」と胸を張る。
「チェッカー時点で僕の前にはマクラーレンが2台、フェラーリが2台、そしてベネトンが2台。自分の中で完璧なレースをして勝ち取った順位でした。イギリスには目の肥えた多くのファンがいます。彼らに健闘を讃えてもらえたことは、僕の中で唯一のプライドになっています」。
後進に託す「世界一」のバトン
現在の目標はツール・ド・フランスで日本チームを優勝に導くことだ。日本人は多くの競技で世界一に輝いた。しかし、F1と自転車競技の世界一は、日本人にとって未踏峰だ。
「ツール・ド・フランスで優勝を狙うためには毎年50億円以上のお金がかかります。大金ですが、大企業から見れば無茶苦茶な額ではありません。だから僕は自転車にお金を回すための会社を作り、海外展開して資金を調達しています。目標は数年以内に表彰台、2030年までに優勝です」。
前段階として、片山氏が会長を務めるジャパン・サイクル・リーグは、自転車競技文化を日本に根付かせるための活動に着手。経済効果500億円、動員人数1,600万人というツール・ド・フランスの活況を日本でも巻き起こそうとしている。GRAND CYCLE TOKYOでは委員長として東京都と連携し、レインボーブリッジを閉鎖してイベントを開催した。
「パンの食べ方ひとつとっても、競技と競技者それぞれに最適な糖類の取り込み方があります。日本の競技シーンを世界レベルの持っていくためには、論理的に強みを積み上げていく必要があります。根性ではありません」。
見据える大舞台は2024年のツール・ド・フランス、そして2028年のロス五輪だ。
「F1では世界一になれなかった。それでも僕はまだ世界一を目指しています。今は自分についてきてくれている若者たちに、自転車で世界一を取ってほしいと思っています」。
最後に片山氏から&Raceの読者に向けて、サーキットを走ろうか悩んでいる人と、現在サーキットを走っている人へのメッセージをいただいた。