グランツーリスモ日本代表、ロードスター・パーティレースⅢチャンピオン、スーパー耐久ドライバー、Racing School GoTakeインストラクター。弱冠25歳にして多彩な経歴を持つ加藤達彦選手の歩んできたレースキャリアは、華やかに見えて苦労の連続だった。
父の会社で起きた給与未払いや、レース前夜にマシンを仕上げて参戦した初の4輪レースなど、「グランツーリスモ出身のレーサー」という言葉だけでは片づけられないキャリアの全貌を伺った。
グランツーリスモに熱中し、リアルでも走り出す
いとこの家にあったグランツーリスモ3が、加藤選手とモータースポーツの出会いだった。「面白い!」。親戚宅で夢中にプレイしたゲームを自分の家でも遊びたくなり、小学校2年生になったときに親から買ってもらったグランツーリスモ5プロローグとハンドルコントローラーが、初めて握るハンドルになった。当時から現在に至るまで、加藤選手のキャリアは常にグランツーリスモとともにある。
また、現在に至るマツダとの出会いは、地元の鈴鹿サーキットで見たSUPER GTに出走していたRE雨宮のRX-7だ。グランツーリスモシリーズにも実装されているイエローとブルーのマシンのとりこになった。モータースポーツにとりつかれた少年の行き着く先はカートだ。小学校5年生の時に父がカートを買ってくれたことをきっかけに、加藤選手は本物のクルマを走らせるようになった。


「カートを買ってくれた父は普通の会社員で、レースに詳しいわけではありませんでした。カートを買えば十分だと思っていたのかもしれません。後から想像以上の資金が必要なことを知り、大いに苦労をかけることになりました」。
小学校時代にはサーキットでの練習を積み、中学生になってから地元のローカルレースへの出走を始めた。しかし、レースキャリアが始まったばかり、中学2年生の加藤選手に、父から会社の給料が払われていないこと、レースを続けるのが困難なことを告げられた。
「父が一番苦しかった時期だと思います。僕はクルマが好きで、レースも楽しく走っていました。しかし、どこか漫然とレースをしている部分があったことも事実です。その日からは1回の練習の中で少しでもタイムが上がるように走りを見直し、何かひとつでも持って帰れるように努力しました」。
速くなるため、加藤選手は限られた予算の中で工夫をこらした。ビデオカメラで撮影した映像から走りを分析し、徹底的にマシンを整備して走りのトライアンドエラーを繰り返した。
それから1年、中学3年生のときにはTOYOTA SLカートミーティング 石野シリーズでシリーズ2勝を挙げてチャンピオン争いに食い込んだ。ライバルは前年チャンピオンにして、後にSuper FJ日本一決定戦で2位を獲得した居附明利選手。


「シリーズで挙げた初めての優勝が居附選手に競り勝っての優勝、人生初の優勝だったんです。それまでは毎戦1対1の勝負には持ち込めるのに2位のレースが続き、『もう一生勝てないのではないか』とめげそうにもなりました。
最終ラップまでもつれた勝負に勝てたことで、それ以降は冷静にレースを運べるようになりました。リスクの取り方や駆け引きが上手くなり、最近ではスーパー耐久で上位クラスのマシンに追い抜かれるときの立ち回りにも活きています」。