SUPER GTスバルチームのMC、ラジオパーソナリティ、&Raceのインタビュアーなど、モータースポーツ領域で幅広く活躍するアナウンサーの結川愛寿加さん。温和な雰囲気をまといながらも、自分で番組を立ち上げ、F1取材に単身で乗り込むなど、行動力を武器にモータースポーツの魅力を発信するプロフェッショナルだ。
今回は人生をモータースポーツの報道にかける結川さんを突き動かす原動力を知るべく、その半生を伺った。
幼少期から声での仕事に魅力を覚える
8歳の夏休みに、小学校の夏祭りで広報車からアナウンスをする機会が訪れた。当時小学校のPTA役員を務めていた父の「喋ってみるか?」という言葉で、結川さんは声を使う初めての仕事に触れた。
「こんなに遠くまで自分の声が響くなんて楽しい!と思いました。小学校4年生のときには6年生を送る会というイベントで『鶴の恩返し』を朗読するクラス代表に選ばれ、マイクを使って話す楽しさを再認識しました」。
しかし少女時代の夢は移ろう。漫画が流行れば漫画家に憧れ、演技にハマった中学時代以降は役者を目指した。しかし、上京して進学する目標を親に演技と伝えることははばかられたので、「アナウンスの勉強がしたい」と言って日本大学の芸術学部に進学した。

「当時はサークルで演技をしながら、放送学科でアナウンスの勉強をしていました。学科ではユニークな友人に囲まれつつテレビやラジオの制作実習や講義などを通してメディアを学び、休日は映画サークルで演技に没頭する日々でした」。
2年次からはアナウンスを専攻し、大学での学業と並行してアナウンサーの専門学校にも通ったという。1年生の頃からアルバイトでアナウンスやテレビ、ラジオ出演の仕事を請けていたが、まだモータースポーツには出会ってすらいなかった。
キミ・ライコネンとの出会いでモータースポーツに傾倒
進学とともに上京してきた結川さんは、一人暮らしの寂しい夜にテレビをつけて過ごしていた。何気なくチャンネルを回して映っていたのはF1中継。当時は地上波でF1が中継されており、欧米が主戦場のレースは、日本では一日の終わりとなる深夜帯に放映されることが多かった。
「当時はルールもわからないですし、かっこいいなと思っても『眠くなったら寝ようかな』と真剣に観ていたわけでもありませんでした。私の見方が変わったのは2003年の最終戦鈴鹿です。ドライバーズチャンピオンに王手をかけているミハエル・シューマッハ選手と、大逆転を狙うキミ・ライコネン選手という構図のレースでした。
ライコネン選手のチャンピオンには本人の優勝とシューマッハ選手のポイント圏外転落が絶対条件。シューマッハ選手はトラブルもあり、ポイント圏ギリギリを走っていました。『これはもしかすると大逆転があるんじゃないか?』と初めてじっくり観たレースでした」。
レース結果はライコネンが2位でシューマッハもポイントを獲得。ドライバーズチャンピオンはシューマッハの手に渡った。一連のレースに心を奪われた結川さんはドライバーを調べ始めた。
「『キミ・ライコネン』」で検索したデスクトップに映ったのはさながら北欧の王子様。心を射止められた直後に婚約者がいると書いてあって、恋した瞬間失恋しました(笑)。改めてレースにハマったきっかけは2005年の鈴鹿サーキットで行われた日本グランプリです」。
「推し」のキミ・ライコネンは17番グリッドスタート。オーバーカットの成功に次いで集団バトルを制したライコネンが、ファイナルラップの1コーナーでジャンカルロ・フィジケラをアウト側から仕留めて大逆転の優勝を飾った。
そのとき結川さんはブリヂストンの仕事で鈴鹿にいた。会場を熱狂で包んだ大逆転劇は、ミシュラン勢であるライコネンの優勝にもかかわらずブリヂストン陣営も沸き立ったという。
「そのときに『私の言葉でF1の魅力を伝えたい!』と思うようになりました」。
モータースポーツ熱が高じて冠番組を獲得
鈴鹿から帰京してすぐ、結川さんは勤務先のラジオ局に自身がパーソナリティーとなる番組の企画書を出した。
「当時はモータースポーツ番組がフジテレビの地上波とCSくらいしかなかったので、自分で番組を作るしかないと思いました。ラジオ局の社長やディレクターに思いを聞いていただき、鈴鹿でライコネン選手の逆転劇を観た半年後の2006年4月から『わくわくピットロード』というモータースポーツ情報番組を始められました。


当時は女性5人で番組を立ち上げたのですが、レースを知っている人は私を含めて3人。私はやる気こそありましたが、ルールは勉強中の初心者でした。知識があるもう2人はレースクイーンとしてモータースポーツに深く関わった経験から愛着と知識がある人たちでした。
残りの2人は何も知らなかったので、私たちも勉強しながら『”F1”の”F”って何?』というところから解説するコンテンツ作りに四苦八苦しました」。
F1ニュースを片っ端から読み漁り、あらゆる情報を集めて勉強する日々もまた、楽しい時間だったという。

単身乗り込んだ2008年日本グランプリ
F1を報道する熱が高まった結川さんは、2008年の日本グランプリでプレスパスを獲得する。英会話教室で英語取材のイロハを学び、取材申請も英語で送れるように勉強した。プレスパスの発行審査では過去の実績も見られるため、2007年から2008年にかけては可能な限り国内の大きなレースに足を運んで取材経験を積んだという。
「発行されたプレスパスは一人分だけ。そもそも一人で取材した経験がなかったので、心細さで迷っていたのですが、当時一緒に番組を担当していた友人から『愛寿加ちゃん、今行かなくていつ行くの?愛寿加ちゃんはここを目標にしてこれまで頑張ってきたんだから』と言われて気持ちが決まりました。
仲間に背中を押されてサーキットに到着すると選手との距離が近く、『すごいところに来ちゃったな』という感覚でした。しかし、取材の勝手もよくわからない。国内レースの取材経験しかないのに、今いる場所は世界最高峰の舞台。いつも通っていた富士スピードウェイとは言葉も雰囲気も違うなど、わからないことだらけでした」。

F1ドライバーは分単位でスケジュールが決まっている。国内レースではパドックやピットでドライバーに「ちょっとよろしいですか?」と話しかけられるインタビューも、F1ではアポを確認される。結川さんは他のメディアが取材しているドライバーに、ダメ元で順番待ちをして突撃した。
「右も左もわからない中、片言の英語でコミュニケーションを取りました。特に印象的なドライバーはヘイキ・コバライネン選手です。アポなしでしたが2分半も優しくインタビューに応じてくださり、最後には一緒に写真も撮ってもらえたんです。
キミ・ライコネン選手は予選後のプレスルームで話を聞くことができ、テレビに比べて100倍増しのカッコよさに正直、仕事どころではなくなりそうでした。それでも一人で取材しているという責任感で自分を奮い立たせ、他のメディアが伝えないことを汲み取ろうと表情や態度にも気を配ってじっと観察しました」。


