「今すぐフランスでレースをしなさい」
鈴鹿のFJ1600でシリーズチャンピオンを獲得した片山氏は1985年に渡仏し、欧州での活動を開始。フォーミュラ・ルノースクールでアラン・プロストのコースレコードを塗り替えるなど海外でも速さを見せたが、日本でのレース経験があったため、規則上エルフのスカラシップを獲得することはできなかった。
しかし、その速さを見込んだスクールの校長はF1を目指してフランスでのレース活動を始めるよう勧めた。
「F1に行くには6年かかる。君は22歳で、F1に乗れるのは現実的に考えると28歳までだ。今すぐフランスでレースをしなさい」。
30代を過ぎてF1のシートを新たに獲得できた例は少ない。片山氏はさっそくフォーミュラ・ルノーを経て翌1986年のフランスF3にデビューした。ランオフがほとんどないノガロ・サーキットのコーナリングで見せたレイトブレーキングなどの攻撃的ドライビングから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれるようになる。
積み重なる借金
しかし、エンジンのオーバーホール費用、タイヤ代などの請求書が積み重なって首が回らなくなった。1987年に帰国した時点で、エンジンやマシンを差し押さえられてもなお数千万円の借金が残ったという。
「もうレースは続けられないかもしれない」という危機感の中、翌1988年のレース出場を目指してアパレルメーカーのBA-TSU社長である、故松本瑠樹氏にスポンサードをかけあった。25歳だった。
「レースの賞金で返すのでお金を貸してください」
「負けたらどうするんだ」
「いえ、絶対に勝ちます」
「それでも負けたらどうするんだ」
「自殺して、僕にかけた生命保険をあなたに渡します。血判を押しましょう」
「ふざけるんじゃねえクソガキ!」
松本氏はテーブルを蹴り上げて激怒した。
「でもわかった、その言葉が俺とお前の契約書だ」
翌日、口座に1億円が振り込まれた。
「僕は本気で死ぬ気でいました。でも、同時に負けるとは微塵も思っていなかった。そのときに『道徳なき経済は悪だ。同時に経済なき夢は寝言だ』と確信したんです」。
以降、片山氏はF3000に戦いのステージを移し活躍する。1990年、ブラバム・ヤマハのF1テストドライバーに抜擢。SUGOを走りながら「テストドライバーではなく、正ドライバーとして走りたい」という思いが高まった。
そんな1991年にドライバーのオファーがあったのはブラバム・ヤマハではなく、ランボルギーニエンジンを搭載するラルースだった。
ラルースから始まったF1人生
「シーズン途中でオファーが来たので、決まったときは嬉しさもあって集中力を欠いてしまうこともありました。でも渡仏して契約し、シートを作って始動したV12気筒の音は今でも身体に染みついています。『これで戦う、これで世界チャンピオンになる』と緊張感がみなぎりました」。
F1本戦で戦ううちに首が太くなった。首回りは44センチを超え、ワイシャツのサイズは3Lでも首回りが窮屈になった。胸囲は1mに到達。空き時間は常に体力づくりで、毎日6時間をマラソン、水泳、自転車などに費やした。もっと走りたい、もっと戦いたい。四六時中頭の中はレースでいっぱいだった。
「あと50cmブレーキを遅らせるにはどうしたらいいか、あと100分の5秒アクセルを早く開くにはどうしたらいいか。食事中も、入浴中も、寝ているときでさえ考えていました。そんな時間が大好きで、楽しくてたまらない青春でした」。
しかし、F1デビュー直後はまだまだ戦えていなかった、と片山氏は振り返る。
最強のライバル、最高の仲間
「同じステージにプロストやマンセルがいるんです。ホテルの朝食会場でセナが『こっちに座りなよ。それでどうだい、F1には慣れたかい?』とか言うんです。めちゃくちゃ嬉しいな、サイン貰っちゃいたいなと思っていました。ミーハーですね」。
アイルトン・セナは紳士的で、偉ぶらない人物だったという。ドライバー同士はライバルだが、同じ舞台を作り上げる仲間でもある。危険があれば協力して改善する、フラットな人間関係だった。
ミハエル・シューマッハや鈴木亜久里氏らとは、レースが終われば一緒に飲みに行き、ジムでトレーニングし、ゴルフに出かけた。
「レースが始まるとみんな自分が一番正しくて一番速いと思っているので最悪な人間性になるんですけどね。まあ、それもF1ドライバーに必要な資質です」。
極限の世界で戦ったライバルは、自転車競技を共にするポール・スチュアートなどを筆頭に今でも親しい友人だという。しかし、F3000時代に戦ったパオロ・バリッラとは、F1で片山氏がミナルディのドライバーとなった際に気まずい縁があったという。
「F3000時代、彼とはソリが合わず、ケンカばかりしていました。でも彼は背が高いからヘルメットをおさえられると腕を振り回しても届かないんですよね。そんなときはキックするんですけど。のちに僕がミナルディF1チームのドライバーになった1997年、彼が副社長を務めるバリッラ社がスポンサーになりました。役員に並んでパオロも出てきたのですが、あのときは気まずかったですね」。