現在も国内外のレースで走り続ける一方、ラジオ番組「FMドライバーズミーティング」で30年近くにわたりモータースポーツの魅力を発信するレーサー鹿島さん。レース関係以外にも、ヒストリックカー(旧車)向けパーツ開発事業、企業プロジェクトやイベントのプロデュース、さらにはオーケストラの運営まで、その活動は精力的で実に多岐にわたる。鹿島さんの肩書を一言で表すことは難しいが、そこに共通しているのは「未来へ文化を残す」という思想だ。多方面に活躍するレーサー鹿島さんに話をうかがった。
「レーサー鹿島」の由来と転機
バイク好きでもあった鹿島さんは、免許取得後まずは2輪のレースに参戦。のちに4輪に転向し、並行してラジオ局でアナウンサーをつとめる。モータースポーツの魅力を伝える仕事がしたいという理由からだった。その局アナ時代、レースをやっていると聞いた編成部長に「じゃあレーサー鹿島ね」と名づけられたのが名前の由来だそうだ。
レースでの転機は1994年。レーシングカートのF100全国大会に招待選手として出場したときだ。雨で何も見えないような状況での決勝。ここで勝てなかったらレースはもう無理だ、これは絶対に行かないといけないと悟った。覚悟を決めてスタートし、見事74台中1位のタイムを叩きだす。表彰式では、鹿島さんのために特別にファステストラップ賞が設けられた。
その時「ここに連絡しなさい」と当時のジュニアフォーミュラであるフォーミュラ・トヨタのパンフレットを渡される。翌日さっそく電話し、TOM’S Spiritからフォーミュラ・トヨタへ翌年参戦することがあっという間に決まった。以降、同レースには1999年まで継続して出場している。
2000年には全日本F3選手権へステップアップし、翌年はスーパー耐久へトヨタ・アルテッツァで参戦。国内トップカテゴリーで経験を積み重ねていく。しかし鹿島さんが本当に挑戦したかった舞台は、日本にはなかった。


アメリカで学んだレースの真髄
「世界で自分がどこまで通用するのか試したい」
その思いを胸に、単身アメリカへ渡る。フォーミュラ・ダッジ・ナショナルシリーズ(FDNC)、CARTプロシリーズを経て、後にインディカー直下のカテゴリーとなるインディ・ライツへ挑戦する。
アウェイの洗礼も好タイム
そのスタートとなった2001年のFDNC。今でも鮮明に覚えている出来事がある。
「練習走行前日にサーキットへ入ったんですが、フォーミュラのシートが作られていなかったんです」
フォーミュラカーでは体を支えるためドライバーに合わせてシートを作る。メカニックは「台数が多くて情報が届いていなかった」と説明した。だが大きすぎるシートのまま走るわけにはいかない。隙間をゴムマットで埋めた応急処置だけで、サーキットへ向かうことになった。
オーバルコースも走るようなハイスピードのレースを、そのような状態で乗るのは本来あり得ないことだ。アウェイの洗礼を受けた形だが、文句は言わずにコースインして約100台中10位というタイムを出した。初めてのマシン、初めてのコースでだ。
ピットに戻るとメカニックの責任者が2リットルの水を抱えて謝罪に来た。その後はシートも作ってもらえ、非常にいいレースウィークを過ごせたという。
「文句は言わずに結果を出せ、そうすれば評価される。それをよく学びました。そしてこれこそがアメリカンドリームなんだと感じました」
この経験は、その後のレース人生に大きな影響を与えることになる。


ここ一番というときに結果を出す
2004年には最高時速340kmに達するインディ・ライツへ挑戦、まずは参戦資格を得るためのルーキーテストを受ける。その時は有名ドライバーの息子も参加しており、運営団体のトップが見に来ていた。アピールには最高のシチュエーションだ。そこで鹿島さんは2001年の経験を胸に、決意を持ってテストへ挑む。
「初めてのマシン、初めてのコースで、また驚くようなタイムを出そう。そうすれば道は切り開かれる」
その決意どおりに全開モードでのぞんだ結果、なんと非公式コースレコードを記録した。ただテスト自体は速さだけを見るものではなかったため、ピットへ呼び戻され「速すぎる。こちらの指示した中で走ってくれ」と言われたという。
この走りが評価され、名門サム・シュミット・モータースポーツ(現マクラーレン)から声がかかり、ランキング上位チームの一員として参戦が決まる。チームを脱退した選手の後任だったが、その選手にはなんとしても勝つようにという指令も受けた。

予選では4位を獲得。決勝ではライバル選手がまずクラッシュ。鹿島さんはトップ争いを繰り広げたが、自身もクラッシュという結果に終わった。だが優勝争いに絡んだこともあり、この時のアメリカでの評価は日本で予想されるものとは違った。
「もちろんクラッシュが良いわけではないですよ。でもそれが勝負をかけた結果であれば、その姿勢が評価されるんです。そしてやるべき時は徹底的にやって結果を出す。チームが求めていることをきちんと形にする。日本にいる時はまだ十分意識できていなかったのですが、それが一番重要なんだとアメリカで学びました」
チームから「仕事」も与えられ、レースをやっている実感が非常にあったという鹿島さん。これらの経験はドライバーとしてだけではなく、その後プロデューサーとして数々のプロジェクトを成功へ導く上でも、大きな財産になっている。


左はサム・シュミット氏
活動の場を広げていく
2008年にもインディ・ライツ参戦へ向け準備を進めていたが、世界を襲った金融危機リーマンショックによってチームの体制が大きく変化。計画は白紙となり、いったんレースから離れることになる。
「当時準備していたレーシングスーツ、今も新品のままなんですよ。苦い思い出です。レースができなかったあの時期は、本当に寂しかったですね」
その時期と前後して、トヨタの仕事でドイツのサーキット、ニュルブルクリンクへ頻繁に訪れるようになる。そこで目にしたのは、日本とはまったく違うクルマ文化だった。
「古いポルシェやフォルクスワーゲンを、おじいちゃん、お父さん、そして息子へと何世代にもわたって乗り継いでいるんです。決して新しい車ではありません。でもその一台を大切にしながらサーキットへ持ち込み、思い切り走らせている。ヨーロッパの文化の深さを肌で感じました」
このときの貴重な経験は、後にヒストリックカー事業や文化継承への取り組みにつながっていく。
その後は、電気自動車レースの黎明期からEV-GPへ参戦し、シリーズ6度のチャンピオンを獲得。現在も現役レーシングドライバーとして走り続ける一方、トヨタが展開するモータースポーツファン向けサービス「MOTORSPORT by KINTO」で、プロデューサー兼チーフインストラクターに就任。モータースポーツの裾野を広げる活動にも力を注いでいる。




