初級者向けフォーミュラとして、プロを目指すドライバーの登竜門的な立ち位置にあるFJ。実際にトップドライバーとして活躍する選手の多くがFJを制しており、プロ志望者の本格的な第一歩として人気が高い。そんなFJなどのジュニアフォーミュラを主戦場に、夢を抱く多くの若者をサポートしプロへと送り出してきたレースガレージの名門が、鈴鹿市に拠点を置くレプリスポーツだ。35年以上の長きにわたりさまざまなドライバーを見守り続けてきた、有限会社レプリスポーツ代表取締役の舘和也さんに話をうかがった。
名門ガレージ・レプリスポーツ設立までの道のり
昭和32年鈴鹿生まれの舘さんが、初めて車に興味をもったのは10歳頃のことだ。「昔の田舎の話なので」と断りつつ、畑仕事のため農道に停めてあった親の軽自動車を運転してみたのだと振り返る。
「僕は平衡感覚がなくて、そのころまだ自転車に乗れなかったんです。皆が自転車で出かけるあとを、自分は走ってついて行ってた。だから、これならどこにでも移動できる、車って面白いと思いました」
中学生のとき、鈴鹿サーキットでアルバイトを始めた。遊園地の誘導でバイト代は1日1000円。ここでレースを観戦して魅了される。それからはテレビでル・マン24時間や富士グランチャンピオンレースなどを見て、自分も走りたいと想いを募らせていった。
免許取得後は走り屋も経験。「やはり昔の話なので」と断りつつ、「峠じゃなくて街なかをね。鈴鹿サーキットの前の道とかをブンブンと走っていた」そうだ。

FL500参戦でポールポジションも
レースへの転機が訪れたのはスズキのディーラーに就職後のことだ。レースをしていた職場の先輩に連れられて、レーシングカー製造のウエストレーシングカーズ(当時はベルコウエスト)を訪れた。そこに当時ミニF1といわれていたジュニアフォーミュラ、FL500の中古マシンがあったのだ。初任給が6万円程度の時代に200万円という価格だったが、舘さんはその場で購入を決断。もちろん購入費用は借金だ。
マシン購入後は鈴鹿で練習を重ねる。南コースはまだなく、最初は西の小さいショートコースを走っていた。
「当時は入るとき出るときにタイムカードみたいなのを押して清算するんです。それで2-3時間くらい走りっぱなしとかね。そういう時代でした」
1978年、20歳の頃からFL500に参戦を始める。当時の同カテゴリでは高橋徹、小河等、中野常治といった選手たちが活躍していた。参戦に際しては自身のマシンを購入し、スズキのディーラーとしては取引先でもある先述のウエストレーシングカーズに面倒を見てもらった。
最初のうちはスポットだったが、次第にフル参戦を果たすまでになる。20台くらいが出場するなか最高で3位を記録、ポールポジション獲得もあった。活動は順調と思えたが、レースには費用がかかる。節約のため整備は自身で行うなどしていたが、当時で借金は300万円にまで膨らんでいた。資金が続かず、レース継続は断念せざるを得なかった。マシンを売却し、借金返済に充てて引退した。


