レーシングカー製造を経て独立
引退後はレースから離れていた時期もあったが、やはりこの世界に残りたいという思いは強かった。そこでレースに足を踏み入れるきっかけとなったウエストレーシングカーズに入社。専務取締役という好待遇を得て、製造も営業も含めて会社に関わった。26歳頃のことだった。
「ウエスト社で経験を積んでいきました。ただ社長の神谷(誠二郎)さんと僕は性格がよく似てましてね。かえってよくぶつかっていたんです。それで結果的にやめさせてもらうとなって、31歳の頃に独立しました。神谷さんに勝つぞという気持ちでした」
そして1988年、自身も戦ってきたジュニアフォーミュラを盛り上げる手助けをしたいという想いを胸に、レプリスポーツを設立。当初はアームなどパーツ製作の下請けをして生計を立てていた。独立の際にも機材購入などで借金をしており、軌道に乗るだろうか、うまくいかないのではと将来に不安を感じることもあった。
そんな苦労を経験しながらも、メンテナンスの仕事が少しずつ増え、ドライバーが徐々にレプリのもとに来るようになった。そして彼らが優勝するなど活躍をしはじめて、さらにプロ志望者が集まりだす。以来レプリスポーツは現在にいたるまで、トップカテゴリで名を馳せるドライバーを多数輩出している。
その顔触れは高木真一、佐々木博、吉本大樹、吉田広樹、小山美姫らをはじめ、レプリとジョイントという形の若手育成プロジェクトTeam NAOKIに石浦弘明、白坂卓也など、そうそうたるものだ。

ちなみに「けんか別れ」をしたウエスト社は、今もレプリの主要取引先の一つだ。
若手からジェントルマンまで幅広く
レプリスポーツにはプロを目指す10代の若者からジェントルマンまで幅広い層が籍を置く。現在その比率は若手が3割、ジェントルマンが6ー7割ほどだ。
「プロ志望でもジェントルマンでも、特に区別はせずに接します。基本的なこと大事なことは同じように伝える。お金のある人にも怒るときは怒る。レースは結果の世界。間違っていることは言います」
若手の最年少は今年(2026年)中学生になったばかり。F1レーサーを目指し小学6年生でレプリの門を叩いたという。「足がまだペダルに届かないので加工して乗せている」そうで、GTドライバーの阪口良平選手に指導を依頼している。英才教育だ。

自信に満ちたプロの卵たち
プロで活躍するドライバーにはある特殊な雰囲気があると舘さんは言う。
たとえば現在スーパーフォーミュラ・ライツなどで活躍する鈴木斗輝哉選手。14歳でレプリに入門し初日から速い走りを見せた彼は、車に対して自信満々な態度だった。
「こんな車おれが乗りこなしてやるよ、という自信ね。おそるおそる乗らない。こいつはなにか持っているなというのが態度に出ていました」
自信という点では高木真一選手も強烈だ。1994年のFJ1600シリーズ最終戦。予選でポールポジションを獲得したが決勝を前にエンジントラブルが起きた。懸命の作業にもかかわらず決勝時間だけが迫るなか、高木選手はひとこと、こう言った。
「とりあえずエンジンかかりさえすればいいです。あとは自分の力でなんとかします」
その言葉通り、高木選手はその決勝で見事優勝しシリーズチャンピオンに輝いた。有言実行だ。
「俺に任せろ、というような精神が彼らにはある。木村偉織選手もそうでした」
エンジントラブルにも動じない
GP2(現FIA-F2)参戦経験もある松下信治選手のエピソードも印象深い。2012年のFCJ(フォーミュラチャレンジジャパン)。やはりエンジントラブルが発生した際に、松下選手は「レーシングカーなんてモノなんだから。走らない時もある。気にすることないです」と言ったのだ。
「まだ1本しか走っていない時にエンジンが壊れたわけです。普通なら“ここで壊れてどないすんねや”て言いますよね。でも彼は、形あるものが壊れるのは仕方がない、でもかかった費用は請求してくださいと言うんです。こいつはすごい偉大やと思いました」と述懐する。



