2001年のJGTC(現SUPER GT)チャンピオン。スーパー耐久6回制覇。レーシングドライバー竹内浩典は日本におけるモータースポーツ界において複数の頂点を獲得した。今でこそプロドライバー・実業家としてその地位を確固たるものにした竹内氏だが、下積み時代を「毎日20時間働く日々でした」と振り返る。
竹内浩典の物語が始まった富士スピードウェイに伺い、現在に至るまでのレース人生を聞いてみた。
竹内浩典とは
22歳の1986年、AE86富士フレッシュマンレースでデビュー。1989年に初めてフル参戦を果たすと、同年度にチャンピオンを獲得した。以降全日本ツーリングカー選手権(JTC)、全日本GT選手権(JGTC)とキャリアを進めていく。並行してN1/スーパー耐久シリーズに参戦。5連覇を含む6回のシリーズチャンピオンを達成する。
2007年に一度SUPER GTを引退すると、自身がドライバーを務めていたCERUMOの監督に就任した。その後2012年と2016年には大ベテランながらSUPER GTのルーキーテストに合格、GT300のドライバーに返り咲いている。同時にスーパーカーレースシリーズの立ち上げや86RACER’Sの運営など、実業家として活躍。
「フォーミュラカーはタイヤが自分の顔に吹っ飛んできそうで怖いじゃないですか」と冗談めかして言う竹内氏は、自他ともに認めるハコ車のスペシャリストだ。
レーサー竹内浩典の半生
デビュー以前〜AE86クラスチャンピオン
デビュー以前は典型的なクルマ好きの青年だった。18歳で運転免許を取得。当時人気のデートカー、ソアラに乗って夜な夜な700円の首都高へ繰り出した。初めてのサーキットは友人の誘いで訪れた富士スピードウェイ。そこで20歳の竹内氏は打ちのめされる。
「僕が乗る2000ccのソアラは負け知らずでした。それなのにサーキットに来たら1300ccのスターレットにぶっちぎられた」。F1は違う世界の話、サーキットの走り方など知らない走り屋だった。レースの現実を突きつけられると同時に、負けず嫌いの心に火がついた。
「絶対にサーキットでやっつけてやるからな!」レーサー・竹内浩典が誕生した。
金とチャンスを絞り出す日々が始まる。初めて買ったレース車両はN1規程のAE86。当時22歳の竹内氏は仲間とともに100万円ずつ出し合って300万円で調達したという。その車両に乗り、1986年の富士フレッシュマンレースでレースデビューする。当時は仲間とローテーションでスポット参戦していた。
「人気のレースだったので毎レースは出られませんでした。仲間とローテションするから僕がシートに座れたのは年に2、3回。それでも資金はどんどんなくなっていきました」。愛車のソアラも売り、アルバイトで参戦資金を捻出した。「今年ダメだったらレースはやめよう」。4年目の1989年、背水の陣でフル参戦を決意した。
結果は6戦5勝でシリーズチャンピオン。レーサー生命が拓かれた。「それ以降のどのシーズンよりも1989年が記憶に残っています」と振り返る。
ステップアップを狙ってスポンサーを探していると、のちにJTCでのスポンサーとなるブレーキパッドメーカー「μ(ミュー)」から開発協力の依頼が届く。開発ドライバー、ブレーキパッド販売、夜勤のアルバイト、そして練習。「1日20時間働く生活でした。運転して、働いて、働いて、気絶するように寝る日々です」。
プロとして
竹内氏は全日本格式のレースに参戦するようになった。GT500チャンピオンを獲得したCERUMOのシートまでは「わらしべ長者のように細い糸をたぐって」たどり着いたという。
GT500へのステップアップ
1991年に全日本ツーリングカー選手権(JTC)、1994年にN1耐久(現スーパー耐久)にデビューし、スカイラインGT-RやBMW M3など、多様多種なマシンをドライブした。転機をもたらした人物は1994年にN1耐久のファルケンGT-Rを整備していた河野高男氏。現在、GT300で活躍するGOODSMILE RACING & TeamUKYOのチーフエンジニアだ。
既にN1耐久で頭角を現していた竹内氏に、RSファインとファルケンのメカニックを兼任していた河野氏が声をかけた。舞台は現GT300およびJGTC GT2の前身となる、JSS(ジャパン・スーパースポーツ・セダンレース)。ドライバーが足りずに助っ人としての参戦だった。1994年の最終戦、JSSシリーズとしても最後のレースでRSファインRX-7をドライブする竹内氏はデビューウィンを飾った。それと同時にJSSは11年の歴史に終止符を打った。
ピーキーで運転の難しいRX-7で勝利した実力は高く評価された。翌1995年に同じJSS車両でGT2(現GT300)にエントリーしたRE雨宮のテストを受け、JGTCの正ドライバーとなる。JGTCデビューイヤーは、「ロータリーの神様」雨宮氏が手がけたRX-7を駆ってシリーズ2勝を含むランキング3位につけた。
1995年末、トヨタのワークスチーム、CERUMOが全日本ツーリングカー選手権(JTCC)のドライバーオーディションを開いた。このテストでトップタイムをたたき出し、ワークスのシートを獲得した。しかし、トヨタでJTCCに出ながらJGTCのRX-7でトヨタと戦うことはできない。「1996年はJGTCに出られないと思っていました」。
ここで風向きが変わる。当時GT500のCERUMOのカストロールスープラでペアを組んでいた光貞秀俊選手とエリック・コマス選手は、コミュニケーションに不和を抱えていた。セッティングが思うように出ない中、CERUMOメカニックの推薦で光貞選手の代打に竹内氏が抜擢された。
1996年、第3戦仙台ハイランドがGT500のデビューレースになった。事前のテスト走行でスープラに乗った竹内氏は驚く。「足回りが硬すぎる。僕のセッティングにしてくれないとレースはできない」。しなやかにロール・ピッチするように仕上げたマシンは、コマス選手のタイムすら上昇させ、カストロールセルモスープラは仙台ハイランドで優勝。衝撃のGT500デビューウィンだった。
頂点の苦しみ
1996年からの主な参戦カテゴリーはGT500とスーパー耐久の1クラス。国内ツーリングカーレースの二大トップカテゴリーだ。1997年からはスーパー耐久において不動のチャンピオンになり、2001年にはGT500も制覇した。ソアラを手放し、時給1,000円の夜勤でAE86を走らせた青年は、文字通り日本一のハコ車乗りになった。
追いかけ続けたチャンピオンの座は、安住の地ではなかった。振り返れば後ろからは無数のドライバーが自分の首を取りに迫っていた。「プロになるまではハングリーに動き回りました。クルマに乗れること、ステップアップできること自体が喜びだったんです。でも、チャンピオンになってからは辛さが勝るようになりました」。
王者として迎える次のシーズンは勝利を当然視される。観客、チーム、スポンサーが自分の勝利を前提にレースを見ている。「『初心忘るべからず』が座右の銘ですが、同時にこのプレッシャーは頂点に立たなければ味わうことができないものでした。ちなみに『人の不幸は蜜の味』も座右の銘ですよ。いつも前がスピンしないかなと思って走っていました。トップを走っているときはそれが自分に向けられるわけですが」。