2024年、SUPER GT GT300クラスのJLOCウラカン88号車は、シーズン終盤の3連勝で大逆転のチャンピオンに輝いた。今回はドライバーの元嶋佑弥選手に、JLOCで悲願の初タイトルを手にするまでのレース人生を振り返ってもらった。
工場でアルバイトをしながら拾い集めたチャンス、盟友小暮卓史選手との出会い、「このチームと心中する」と決めたJLOCでの7年間。元嶋佑弥選手の挫折、出会い、躍動の日々を追う。
速さを見せるが乗り続けられなかったフォーミュラ
ホンダのオーディションでスカラシップを獲得
両親のクルマ好きが影響して幼少期にカートを始めた元嶋選手だったが、小学生時代に両親の離婚を受けてキャリアは早々にストップしてしまう。小学校から高校までは地元の公立校に通い、陸上部で走る普通の少年として育った。
レース欲はあったものの、資金を捻出することはかなわず、高校時代はバイト代で買ったバイクを乗り回していたという。転機が訪れたのは高校卒業後の2009年に受験した鈴鹿サーキットレーシングスクール(略称:SRS-F・現:Honda Racing School Suzuka Formula)オーディションで獲得したスカラシップ。
「時代的に中高生の若手がフォーミュラを練習できる環境ではなかったことも幸いしました。一緒に受験していたカートにずっと乗っていた中高生ドライバー達にもフォーミュラのキャリアはありません。イコールコンディションで勝負できた上に、SRS-Fは伸びしろも総合的に見て判断してくれました」。
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それでも約10年というキャリアの差を埋められたのは、生まれ持ったマシンへの適応力の高さゆえだという。どのようなセッティングのどんなマシンに乗ってもすぐに速く走らせられる能力は、当時のテストから現在のSUPER GTまで元嶋選手を支える強さの屋台骨だ。
「1年間戦っているうちに、卒業するころにはトップ争いができるようになってきました。小さい頃からレースをし続けている同期のモチベーションが切れかかってくる時期に、自分はレース欲がメラメラと燃えていたこともポジティブに働いていたと思います」。
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Super-FJ日本一決定戦に優勝するも…
Formula Challenge Japan(略称:FCJ)にはSRS-Fから2010年、2011年の2年間参戦し、2度の優勝を飾っている。3年目の契約も提示されたが、資金の持ち込みが条件にあったためこれを断念。地元に戻り、ポルシェカレラカップジャパン(PCCJ)に帯同しながら態勢を立て直した。
FCJはSRS-Fと父からの資金的バックアップがあったため、鈴鹿に引っ越してレースに集中できていたが、SRS-Fとの契約終了後には練習する時間と資金をひねり出す生活苦が始まった。
2012年にはF4相当のFCJからSuper-FJへとステップダウンし、地元のオートポリスシリーズへの参戦を始めた。工場でアルバイトしながら参戦したSuper-FJのシーズンでは、同年末にツインリンクもてぎ(当時)で行われた日本一決定戦をポールトゥウィンで優勝している。
「トップタイムを出せる速さはありながらも経験が足りず、結果が出せないというレースの繰り返しがFCJまでのレースでした。2012年はステップダウンに納得できないながらも、レースを諦めきれずにSuper-FJに出場しました。
シーズンと日本一決定戦は自分にとって勝って当然、勝てなければレースは辞めようと決めて臨んだレースです。FCJの経験があったのでSuper-FJ日本一の後にスカラシップ受給資格はなく、立場があいまいなままシーズンが終わりました。
土日に少し走れればラッキーという日々で、当時は日々の生活と自分のことで精いっぱい。周りの人や物事に気を配る余裕はどこにもありませんでした」。