ジョニー小倉さん
60代・スーパー耐久最年長ルーキー・サーキット走行/レース歴約40年
2023年、最年長ルーキーとしてスーパー耐久にデビューしたジョニー小倉さん。「75歳までは全然行けるね!」と力強く語るジョニーさんもHow Match走行会の参加者です。
4輪競技に入るまではどのようにモータースポーツをしていましたか?
小倉 モータースポーツは社会人になってから始め、20代はモトクロスをしていました。当時はヤマハのワークスライダーなどから、「速くなる術」を伝授してもらいましたね。40代になってユーノスロードスター買ってからは草レースをしていました。
ホームコースは筑波と日光。午前中にレースして、午後に出社する生活です。ぶつけ合いもありながら、仲間内で和気あいあいとしたレースを楽しみました。
どうやってスーパー耐久に出たんですか?
小倉 次男が大学のチームでK4GPに出ているのを見て、自分もK4GPに参戦し始め、常勝チームになりました。60歳を迎えてからドリフトをするかJAF戦にするか悩んでJAF戦に決定。ロードスターカップがスーパー耐久の前座でやるようになったのを見て「S耐に出たい」と思うようになりました。
当時はロードスターで山本謙吾選手に勝てず、悔しくてずっと富士スピードウェイを走り込んでいました。今でも毎週続けている富士での走りがスーパー耐久のテストに結び付いたんです。
700~800万円あれば3~4戦は出られると聞いていたので、最初は中古車を買って、自分のチームで出ようとしていました。スーパー耐久のチームに声をかけて回るうち、「NOPRO」さんなどからオーディションの声がかかりました。出走予定のレースは富士スピードウェイ24時間レースです。
富士は年間1,000ラップ以上走るホームコースなので、目をつぶっても走れます。自分の庭のような場所でこんなに面白いイベントをやっているなら、出ない手はないだろうと思いました。
NOPROさんのテストで合格をいただき、2023年まであった40歳ルールを受け、私がAドライバーを務めることに。いざピットに行くと、20名以上のメカニックがマシンを整備し、新品のタイヤを履いたマシンが待っていました。「俺の出番だ」と思いましたね。
スーパー耐久はいかがでしたか?
小倉 自分が別人になったみたいでした。決勝レースになると20回ぐらいサインするんですよね。子どもにサインを求められて「おじさんサインはできないんだ」とは言えないじゃないですか。だから「次回はちゃんとしたサインを書けるようになろう!」と思って翌日はサインの練習をしました。私も人に夢を与えられる立場にいられるというのはすごいことですよね。
走りに関して言えば、クルマに優しく走ることを学びました。私はバックグラウンドが2輪なので、レースは自分次第だと思っていたんです。突っ込みすぎ、アクセルを開きすぎで攻めすぎることが多く、よく注意されました。
S耐(スーパー耐久)ではバトルもジェントルな選手が多いので、トラブルが起きるとしたら自分が変なことをしているんですよね。アクセル、ブレーキ、ハンドル。そのすべてをツーリングのように優しく操作すると速くなりました。
今年の目標は表彰台獲得です。2023年はルーキーでしたが、2024年はチームにも貢献したいので、意見を出し合い、プロとしての立ち回りをしたいと思っています。
様々な理由でジェントルマンがレースを離れますが、ジョニーさんはどうしてそんなにアクティブでいられるんですか?
小倉 サラリーマン時代、製薬会社に勤めていたので、「人間が元気でいる秘訣」みたいなものには造詣がありました。その後父からゴルフコースの経営を継ぎ、詐欺にも遭いながらスーパー銭湯の経営を始めました。それも健康に効果があり、サプリも活用して元気と動体視力を保っています。
24時間耐久の1.5時間4スティントもクールスーツなしで走れましたし、夏場のSUGOラウンドもゴルフ用の氷冷パックで乗り切れました。
なんでもやってみることが大切だと思います。考えていたら前に進めないですから。F1を見てください。アロンソが40過ぎまで優勝を争っているんです。普通の人でも60過ぎまでは絶対戦えます。