ブリヂストンのタイヤエンジニアとして、F1をはじめとする世界のレースへ競技用タイヤを送り出してきた浜島裕英。F1ドライバーたちからは愛を込めて「ハミー」と呼ばれる。70歳を迎えた今もタイヤアドバイザーとしてレースに関わり、暇さえあればゴルフで鍛えるその体と口ぶりは壮健そのものだ。
今回は浜島氏がモータースポーツに入り込んでいった道のりと、F1の世界で見た景色について伺った。「この歳になってもタイヤに関わっていられることは幸せです」と語るレジェンドエンジニアは、意外にも20代までモータースポーツにまったく興味のない青年だった。
普通の少年がF1に魅せられるまで
1950年代、浜島氏は現在の風貌からは想像もつかないほど細身で病弱な少年だった。現在のイメージに近づくのは小学5年生の2学期からだ。転校先の給食を食べまくった結果「ブーちゃん」と呼ばれる恰幅になったという。ちなみに豚と揶揄しての「ブーちゃん」ではなく、エースコックの「こぶた」流行にあやかった愛称だったようだ。
進学した東京農工大学では高分子物理を専攻。繊維やプラスチックの研究をしていた。当時は繊維メーカーから奨学金を受けて大学院に通っていたため、進路は必然的にその繊維メーカーだと思っていた。
ブリヂストン就職の決め手は美術館
人生の転機が訪れたのは就職活動の始まる1976年。「父からブリヂストンという会社があると聞いたので、人事部を訪れました。帰り際にブリヂストン美術館(現:アーティゾン美術館)のカレンダーをもらい、製造業なのに文化活動にも力を入れるなんて立派な会社だと思ったんです」。
大学に戻った浜島氏は、研究室の指導教官にブリヂストンを受けてみようと告げた。ゴムは専攻外のため、指導教官は記念受験だと思ってそれを了承した。「受けてみたらすぐに内定の連絡をもらってしまいました。就職協定を結んでいる指導教官の教授は激怒。それでもブリヂストン行きを決めました」。
就職の決め手は美術館、クルマとのつながりは学生時代に取得した普通免許だけ。モータースポーツはまだ縁遠い世界だった。入社当初は低燃費タイヤの基礎開発を行い、その後は乗用車タイヤ開発に移った。その当時自分の近くに席があったモータースポーツタイヤ開発課に対して、いい印象はなかったという。
「彼らは残業まみれでタイヤ開発をし、休日を返上してレースに立ち合っていました。課長は怖そうな人だし、入社してから私はスキーにハマっていたので休みがなくなるのはごめんでした」。
レースを知らぬままモータースポーツの世界へ
しかし1981年3月、人事部からの辞令でモータースポーツタイヤ開発課への異動が決まる。最初の仕事はF2・F3・フォーミュラパシフィック・グランチャンピオンレース・レーシングカート用のタイヤ開発だった。早速課長にスキー禁止令を言い渡され、呪詛をとなえながら予約をキャンセルしたという。
浜島氏は同年の夏から欧州へ飛び、欧州F2選手権にアテンドした。当時のブリヂストンはヨーロッパのF2選手権にラジアルレーシングタイヤの供給を開始した時期だったが、F1には未参入だった。
「この頃はまだレースのことがわからず、中嶋悟選手や星野一義選手を指差して『あの人は誰ですか?』と聞いて課長にげんこつをもらうような日々でした」。
翌1982年5月、モナコで初めてF1を観戦した。カジノ・コーナーの脇で疾走するマシンを見、華やかなパドックや、そこを訪れるセレブリティに触れた。「なんて洗練された世界なんだ。レーシングタイヤの開発をするなら、モータースポーツの頂点であるF1しかない」。
帰国後は上司の説得を始めた。「F1に出たい出たいと言い続けて15年。途中、Gr.C、インディカー、DTMなどの人気レースへのタイヤ供給を行わせてもらいましたが、ようやくF1参入が決まりました」。ブリヂストンのF1参入は1997年。実に15年越しの思いだった。
「ウニ」と呼ばれたF1時代
「体は丸いのに言葉の節々にトゲがあるから、社内ではウニと呼ばれていました」。笑顔多く穏やかに話す浜島氏だが、サーキットや社内の会議では人が変わったように無愛想だと口々に言われた。
桁違いの密度と発信力
当初1998年の予定だったF1の参戦は前倒しになり、1997年、メルボルン開催のオーストラリアGPがデビューレースになった。縮まった日程に現場は必死で対応した。
タイヤは日本から、フィッティング器具はイタリアから、クルーはイギリスから飛んできた。「必要な人とモノはメルボルンに揃うのか…?」と最後まで不安が絶えなかったという。「レース後の晩は安堵からワインを飲みすぎて翌朝寝坊しました」。
「ある人はボディを、ある人はミラーを、365日、寝る間も惜しんで開発しています。F1のパドックは究極の技術オタクが集まる場所です」。「F1エンジニア」としての立ち居振る舞いが求められるようになった浜島氏は、周囲のエンジニアに食らいつこうと必死に勉強した。
「私のようなサラリーマンエンジニアの発言も、取材の翌日にはニューヨークタイムズなどの世界の著名な新聞に載ります。ドライバーには秘書がついて、一挙手一投足が広報になるようサポートします。チームはパドックを訪れたメディアやゲストに温かい料理を振る舞い、0.1秒を削り取るため、少しでもいい条件や記事を引き出そうと努力します」。
F1は厳しく結果を求められる世界だ。チームは技術力だけでなく、ホスピタリティを通してもマシンの戦闘力を高めるための手を尽くす。関係者の発信は他カテゴリーの追随を許さないきめ細やかさで管理されている。
ストイックなシューマッハとお茶目なベッテル
勝負を左右するタイヤ開発の責任者は、レースのキーマンと言っても過言ではない。浜島氏は多くのドライバーと寝食をともにした。
「ミハエル・シューマッハ、フェリペ・マッサ、ジェンソン・バトン、セバスチャン・ベッテル。彼らをお気に入りの和食屋に連れていきました。板前さんは彼らに合わせた料理を出してくれるので、みな舌鼓を打ってくれました」。
F1で戦うドライバー達は一流のアスリートだ。勝利のために連日連夜、タイヤについての注文や質問が飛び続けた。しかし彼らも人間だ。食事の席ではどこまでもストイックなシューマッハと、茶目っ気のあるベッテルの対比が記憶に残っているという。
「シューマッハは『ハミー、この和牛を網焼きにしてくれ。この脂を落とすためのトレーニングは半端なものじゃダメなんだ』。ベッテルは『ハミー、このステーキを食べたことはトレーナーには内緒で頼む』」。
ミシュランとの開発競争
2001年から2005年はブリヂストンとミシュランが「タイヤ戦争」で火花を散らした。朗らかな紳士を「ウニ」に変えた当時の様子を振り返ってもらった。
「あの開発競争は怖くてたまりませんでした。少しでも出遅れたり、開発がうまく進まなかったりするとミシュランに優勝を奪われます。でも、今思えばあのときが一番楽しかったかもしれません。打倒ミシュランを掲げて作り上げたタイヤが勝利した喜びを分かち合う。その瞬間の気分には他に代えがたいものがありました。
その開発プロセスはコロンブスの卵です。わずかな違いも試すまでわかりません。小さな情報を拾い集め、変化を試してみると大きくタイムが伸びたりします。地道な開発の積み重ねは、レーシングカーやレーシングタイヤ作りにおいて避けては通れない道でしょう」。
ワンメイクゆえの苦労も
2005年にミシュランがF1から撤退すると、F1のタイヤは1999年-2000年に続き再びブリヂストンのワンメイクとなった。ライバルがいなくなれば安心と思いがちだが、ワンメイクにはワンメイクの大変さがあるという。
設計、調達、生産技術、製造。ものづくりは多くの人がチームを組んで行う。どこかで間違いがあれば、本来意図していたものとはかけ離れた製品が出来上がってしまう。また、生産ロットによって品質のばらつきが生じれば、F1という大舞台で特定のチームに大きなアドバンテージを生んでしまう。
「ミシュランと競い合って少量生産をしているときは品質を管理しやすいですが、ワンメイクになると話は別です。すべてのチームが公平に戦えるよう、品質管理にはひときわ目を光らせました。チーム一丸となってタイヤを作り上げることはワンメイクでも同じです」。
ブリヂストンからフェラーリへ
ワンメイク時代とタイヤ戦争時代を戦い抜いたブリヂストンは、2010年で14年にわたるF1での戦いに幕を下ろした。しかしF1は、その歴史に175勝を刻んだエンジニアを黙って見送るような世界ではない。
一度はオファーを辞退
2011年以降の「ハミー」獲得にはフェラーリが動いた。とはいえ浜島氏は部下もいるサラリーマンだ。いきなり会社を去るわけにはいかないと、一度はオファーを辞退した。そこで「はいそうですか」と引き下がるフェラーリではない。
2011年。日本GPが終了し、各チームが鈴鹿を去る最中、スクーデリア・フェラーリチームのステファノ・ドメニカリ代表から電話が入った。「新幹線で東京に向かっているからホテルに来てくれ。話がある」。2人は東京のホテルで深夜に落ち合った。「ハミー、フェラーリのオファーを忘れたわけじゃないよな? おっと会長から電話だ。出てくれ」。
渡された携帯電話の向こうにいたのはフェラーリ会長のルカ・ディ・モンテゼーモロ。「ミハエルたちと一緒にやっていた素晴らしい世界をもう一度やろうじゃないか」。その呼びかけがフェラーリ移籍の決め手になった。
仕事がドライではないフェラーリ
フェラーリでの仕事はタイヤづくりから、タイヤにマシンを合わせることにシフトした。フェラーリには思いのほか早く順応したという。
「仕事関係がドライではない感じは日本に似ていました。イタリアでは食事にワイン、教会や古城めぐりも堪能しました。生ソーセージはランブルスコとよく合うんですよ」。トップチームは仕事をしろと急かしてこない。仕事はして当たり前、プライベートも充実させろという方針だった。
外国人メンバーが多く在籍するチーム内の公用語は英語。しかし、議論が白熱するとイタリア人同士がイタリア語で熱弁を交わした。「私も数字くらいは勉強しましたけど、熱く語っている内容はさっぱりわからない。しょうがないから外国人たちは黙って聞いていました」。
そんなフェラーリで3年間を過ごし、2014年、日本へ帰国した。
現在の仕事と未来へのメッセージ
2022年に初孫が生まれた浜島氏は「おじいちゃん」になり、孫を溺愛しているという。しかし、その働き方はブリヂストン時代の標語「Passion and Challenge」を今も貫いている。
今も「情熱と挑戦」でタイヤと関わる
2015年以降は国内のレーシングチームで監督やアドバイザーなどを歴任し、現在はNAKAJIMA RACINGでタイヤアドバイザーを務めている。中嶋悟総監督とはモータースポーツタイヤ開発課に異動した1981年からの付き合いだ。SUPER GTやSUPER FORMULAでは若手と多く触れ合う中で多くの刺激を受けているという。
「この歳になってもタイヤに関われること自体が幸せです。若いドライバーにタイヤのことを伝え、真摯に受け止めたドライバーが優勝してくれることが何よりの喜びです。そんなチームは話しやすく、風通しの良い雰囲気です。仕事も食事も、なんでもやって、なんでも食べてみる。情熱と挑戦で仕事を前に進める仕事観は変わりません」。
頭がはっきりしているうちは仕事に打ち込むと語る浜島氏は、70歳を迎えても謙虚で情熱の火を絶やさない。休日はゴルフに繰り出し、孫と酒を酌み交わすまでは元気でいたいと声を弾ませた。
タイヤのプロから全国のドライバーへ
最後に、全国のドライバーに向けてのメッセージをうかがった。
「サンダルではなく、スポーツシューズとしてのタイヤを楽しんでほしいと思っています。モータースポーツにはお金がかかりますが、カートなら気軽に楽しめます。プロと同じラインを走るのは難しい。それを知るだけでも交通安全に役立つでしょう」。
そしてタイヤのプロフェッショナルとして続けた。
「地面とクルマが触れ合うのはタイヤだけ。タイヤを支えているのは空気だけですから、内圧にはくれぐれも注意しながら挙動を感じ取ってみてください。モータースポーツは安全に配慮して行えばとても楽しいスポーツです」。