ロードレーサー界のレジェンド、青木三兄弟の次男・青木拓磨(以下:拓磨)。拓磨氏は97年にGP500(現MotoGP)でフル参戦初年度にもかかわらず表彰台3回、年間ランキング5位を獲得した。しかしキャリアが絶頂に達しようとした翌98年、テスト走行中の事故で下半身不随となる。
「バイクに乗れないなら、クルマで世界一のレースに出る」。拓磨氏は世界三大レースのルマン24時間耐久レースを目指して4輪レーサーとしての活動を開始。事故から23年後の21年にルマン出場を叶えた。不屈のレーサーとして世界への挑戦を続ける拓磨氏に、ルマンを走るまでの思いと、今後の目標を伺った。
これからという時の事故
「バイクの世界で多くの事故を見ていたので、完治が難しいことは知っていました」
NSR500で三度の表彰台を獲得し、史上初の日本人GP500チャンピオンを嘱望された98年。拓磨氏はテスト運転中の事故で脊髄を損傷し、半身不随となる。
青木三兄弟の次男として生まれ、小学4年生でレースデビュー。順調にステップアップして全日本選手権を制し、正ドライバーとしてGP500デビューした翌年のことだった。
ショック以上に不完全燃焼の思いが残った。「まだGP500の2シーズン目に入る前。これからという時の事故で、レースへの思いを消化できるわけがありませんでした」。淡々と語る口調が、逆に意思の据わり方を表していた。
日本で最低限の治療を済ませた拓磨氏は、より高度な医療を受けてレースに復帰するために渡米。当時最先端のEMS(神経筋電気刺激療法)を取り入れたリハビリで足腰を鍛えた。同時に、医師からすすめられた腕力のトレーニングも行った。レースにも移動にも、これからは足ではなく腕を使うのだ。
そして事故の翌年にはホンダレーシングの助監督としてモータースポーツの世界に復帰。4輪では国内レースから再スタートし、07年にFIA公認競技のアジアクロスカントリーラリーで再び世界に飛び出した。


2輪がだめでも4輪がある
「世界は目の前にぶら下がっていたんだ。2輪がダメなら4輪で勝ち取ってやる」
常人であればまだ気持ちの整理もつかないような時期に、拓磨氏は再び世界のステージで戦うと胸に誓った。
そのモチベーションはただの気合ではない。視線の先にいたレーサーは、かつてフェラーリなどのF1ドライバーとして活躍した故クレイ・レガッツォーニ氏だ。彼は事故で半身不随となってからレースに復帰。パリダカにも出場し、障害者への差別が色濃かった80年代に車いすレーサーの道を切り開いた人物だ。
拓磨氏はその姿を見て世界三大レースの一角、ルマン24時間耐久レースを目指したという。
挑戦はJAFの国内ライセンスを取得することから始まった。手動操作できるように改造されたマシンを駆って国内レースで実績を積み、07年のアジアクロスカントリーラリーでFIA競技デビュー。ダカール・ラリーへの出場も果たし、レガッツォーニ氏と同じステージに足を踏み入れた。
スーパー耐久シリーズやFIA GT3でも実績を残し、オンロードの4輪競技でも戦える実力を見せつけた。「ルマンへ行く」。JAFライセンスの発行から始まった挑戦は着実に前進した。


そして念願のルマンへ
18年、拓磨氏は身体に障害を持つドライバーだけで構成されたチーム「SRT41」に合流した。SRT41はルマン24時間耐久レースで革新的なマシンに送られる「ガレージ56」という出場枠に向けて活動し、16年にも出場実績がある。
合流後のSRT41では18年にVdeV耐久選手権、19年にUltimateCUPなどで経験を積み、20年のルマン出場を勝ち取った。このときはコロナ禍で出場を取り下げたが、翌21年、第98回ルマン24時間耐久レース出場を果たした。98年の事故から23年。願い続けた場所にたどり着いた。
ルマン24時間耐久レースは生活道路を1週間貸し切って行われ、世界中のレーサーやファンが集まる。多くの人が憧れるステージだが、走れるのは選ばれた人間のみ。超高速ストレートの「ユノディエール」からテクニカルセクションまであるコースのレイアウト。そんなルマンの舞台は「すべてがAmazing」だという。
100回目を迎えた23年のルマンはフェラーリ、ポルシェ、プジョーなどがトップカテゴリーのハイパーカークラスに復帰して大きな盛り上がりを見せた。盤石と思われたトヨタに代わって、49年ぶりに復活したフェラーリの優勝は感動をもって迎えられた。
全体のレベルが上がっている様子を見た拓磨氏の胸の中で、もう一度走りたいという思いが強まった。現在は次の出場に向けてアプローチを開始しているところだ。
もう一つの目標
ルマン再参戦と並ぶもう一つの目標は、拓磨氏がFIA公認競技に復帰するきっかけとなった、アジアクロスカントリーラリーの総合優勝だ。
クラス優勝は経験しているものの、総合での最高位は2011年の3位。昨22年の総合成績は4位だった。13回目となる23年8月の参戦に、優勝への意欲を燃やしている。

レース開催・社会貢献…多彩な活動
自身がドライバーとしてステアリングを握っていないときは、モータースポーツと安全運転の普及に尽力している。「目的は笑顔を生み出すことと社会貢献です」。
レースはスタートとゴールがわかりやすく、短時間で結果が数字になって表れる。動機・年齢・障害に関わらず、数値目標を立ててチャレンジすることは、人生のハリにもなるという。全力でモータースポーツを楽しんでもらうことが何よりのやりがいと語る。
レンタルバイクで耐久レース
とはいえモータースポーツのハードルと金銭的な負担は高い。そこで拓磨氏は「レン耐」を作りそれらを極限まで下げることにした。
レン耐は、全国のサーキットでユーザー参加型のレースを開催する。レース用のバイクを所持していなくても、APEやGromなどのバイクを借りてレースを楽しめる手軽さが特徴だ。ほぼ毎週どこかのサーキットでレースや練習会が開かれている。目下の目標は利用者年間1万人突破だ。
手だけで運転できるレース車両の講習
社会貢献では、一般社団法人国際スポーツアビリティ協会を主宰。障害の有無にかかわらず安全運転やスポーツ走行のレクチャーを行っている。
当協会の事業のひとつであるハンドドライブレーシングスクール(HDRS)では、手動装置付きのマーチカップ車両やN1を揃え、レース参加希望者への指導やライセンス取得の手引きを行っている。
障害の壁を壊し、皆がレースを楽しむ
これらの活動を通して、拓磨氏は自身がぶつかってきた障害の壁を壊そうとしている。
また、FIAにはDisability and Accessibility Commission(DAA)が立ち上がり、障害を持った人がモータースポーツのライセンスを取得できるよう働きかけている。「FIAは僕の活動も応援してくれています」。社会に残る障害や性別に対する差別の原因は、オーガナイザーの意識と、それに基づく体制だと語った。
「もう一度サルトサーキットを走りたい」「アジアクロスカントリーラリーで優勝したい」という闘志、「障害者に対する差別を打破したい」という想いを両輪に、拓磨氏はレースや事業を続けている。
それぞれは独立した活動ではない。拓磨氏の純粋なレース愛に触れれば、世界の老若男女がレースを楽しんでいる状態こそ、彼の目指す環境であることが見てとれる。
「レースを通じてみんなが笑顔になれるとき、僕は一番やりがいを感じるんです」。

略歴
年度 | レース | 戦績 | チーム・車種 |
---|---|---|---|
1983 | ポケバイレースデビュー | レースデビュー | |
1990 | 間瀬地方選手権 国内B級125・国内B級F3クラス | チャンピオン | H-RS,H-NSR |
1991 | 全日本選手権国際A級250ccクラス | ランキング13位 | 日清カップヌードル・ホンダ・RS-R |
1992 | 全日本選手権国際A級250ccクラス | ランキング4位 | 日清カップヌードル・ホンダ・RS-R |
1993 | 全日本選手権国際A級250ccクラス | ランキング2位 | 日清カップヌードル・ホンダ・ NSR |
1994 | 全日本選手権スーパーバイククラス | ランキング2位 | 日清カップヌードル・ホンダ・RVF/RC45 |
1995 | 全日本選手権スーパーバイククラス | チャンピオン | 日清カップヌードル・ホンダ・RVF/RC45 |
1995 | 世界選手権第3戦 JAPAN GP500 | 3位 | HRC・NSR500 |
1996 | 全日本選手権スーパーバイククラス | チャンピオン | 日清カップヌードル・ホンダ・RVF/RC45 |
1996 | 鈴鹿8耐 | 3位 | カストロール・ホンダ・RVF/RC45 |
1997 | 世界選手権 GP500 フル参戦 | シーズン5位 | HRC・NSR500V |
年度 | レース | 戦績 | チーム・車種 |
---|---|---|---|
2007 | アジアクロスカントリーラリー T2-G | クラス2位 | team takuma-gp・三菱 トライトン |
2008 | アジアクロスカントリーラリー T2-D | クラス優勝 | team takuma-gp・いすゞ D-MAX |
2009 | アジアクロスカントリーラリー T2-D | 総合12位 | team takuma-gp・いすゞ D-MAX |
2009 | ダカール・ラリー T2-2 | リタイア | team takuma-gp・いすゞ D-MAX |
2010 | アジアクロスカントリーラリー T2-D | 総合8位 | team takuma-gp・いすゞ D-MAX |
2010 | スーパー耐久ST4 | シーズン12位 | SAMuRAI 無限 ADVAN DC5 |
2011 | HONDA EXCITING CUP CIVIC INTER | 11位 | グイドシンプレックス・シビック・FD2 |
2011 | アジアクロスカントリーラリー T2-D | 総合3位 | team takuma-gp・いすゞ D-MAX |
2012 | アジアクロスカントリーラリー T2-D | 総合6位 | team takuma-gp・いすゞ D-MAX |
2012 | スーパー耐久 ST2 | シリーズ3位 | RSオガワADVANランサーII |
2013 | アジアクロスカントリーラリー T2-D | 総合11位 | team takuma-gp・いすゞ D-MAX |
2013 | FIA GT ASIA FUJIラウンド GTMクラス | 5位 | DIJON RACING・シボレー・コルベットGT3 |
2014 | アジアクロスカントリーラリー | 総合4位 | team takuma-gp・ISUZU MU-X |
2014 | FIA GT ASIA GTMクラス | シリーズ 2位 | ディランゴレーシング・ランボルギーニ・ガヤルドGT3 |
2015 | アジアクロスカントリーラリー | 総合17位 | team takuma-gp・ISUZU MU-X |
2016 | アジアクロスカントリーラリー | 総合9位 | team takuma-gp・ISUZU MU-X |
2017 | アジアクロスカントリーラリー | 総合6位 | team takuma-gp・Fortuner |
2018 | ベドゥベ選手権 | クラス3位 | SRT 41・Ligier JSP3 |
2019 | アジアクロスカントリーラリー | 総合13位 | team takuma-gp・Fortuner |
2019 | Takuma Rides Again | デモラン | RC213V-S |
2021 | ルマン24時間耐久レース | 総合32位 | SRT41・Oreca07 |
2022 | アジアクロスカントリーラリー | 総合4位 | team takuma-gp・Fortuner |
2023 | アジアクロスカントリーラリー |