「もっと怒りをぶつけるように走るんだ!スピンの心配より抜かなきゃいけないヤツが前にいるんだ!」。富士スピードウェイで田畑勇がドライバーに檄を飛ばしていた。
同地でスポーツ走行のコーチングを行っている田畑氏は「怖い、不安、わからない。そんな『踏み切れない理由』を取り払ってドライバーの能力を引き出すのが僕の役割と思っています」と語る。
「モータースポーツの敷居を下げたい」と語るに至ったレース人生の、これまでとこれからを聞いた。
2度の試練と復活
「お客さんのレース活動を手伝っていたのがモータースポーツとの出会いでした」。地元、箱根は走り屋の聖地。タイヤショップに就職した田畑氏が、顧客と触れ合う中でレースの世界に引き込まれるのは自然な流れだった。
87年、タイヤショップの顧客がTS1300クラスの富士フレッシュマンレースに出場した。金網の向こうを、インリフトしながらコーナーを駆け抜けていくサニー。
「すごい世界だ」。そこからは早かった。持ち前の行動力でA級ライセンスを取得し、90年にはKP61型スターレットで富士スピードウェイのフレッシュマンレースに出場。予選で8番グリッドを獲得するも、決勝では3度のスピンで最後尾に転落する。
「レースの走り方なんて何も知らない。駆け引きの『か』の字もわかりませんでした」。
翌年には愛車のS30型フェアレディZを手放し、先輩の竹内浩典氏からレース車両のAE86を購入した。「Zを売ったらナンバー付きのクルマがなくなったので、輸送用のキャリアで通勤していました」と笑う。
同年には一度表彰台を獲得するも、最終戦、富士スピードウェイの100Rで大クラッシュ。幸い怪我はなかったが、シーズン終了後には空っぽの口座と、AE86の廃車がガレージに残った。
途方に暮れる田畑氏に、前出のサニーのドライバーが声をかけた。職場の顧客であり、「師匠」と呼ぶ人物だ。偶然クラッシュを見ていた彼から用意されたのは、ナンバー付きのAE86。次のシーズン開幕まで残り2ヶ月だった。夜を徹してチューニングする日々が始まった。
仲間が正月返上で集まった
それからというもの、箱根や富士の仲間が連日ガレージに詰めかけた。「正月返上で集まってくれた人たちと徹夜でボディをオールペンし、エンジンを載せ替えました。とても一人でできる作業ではありませんでした」。クルマが出来上がったのはAE86フレッシュマンレース開幕戦前日だった。
2勝を含む好成績でシーズンを2位で終えると、ステップアップが視野に入るようになった。93年シーズンにはフレッシュマンレースへの継続参戦と並行してN1耐久へのスポット参戦を開始する。
「ミスったら次はない」
資金的にスーパー耐久シリーズはスポット参戦が限界と思っていた2000年。田畑氏が「もう一人の師匠」と呼ぶ、PowerMagiCで当時メカニックをしていた武藤文雄氏から声がかかる。
「来週の十勝24時間に出てくれないか?」。さすがにその日程では本業に差し障ると辞退するが、同年の富士スピードウェイで行われる24時間耐久レース、SUPER TECの参戦を取り付ける。
武藤氏やスポンサーのバックアップを受けて01年にはフル参戦のシートを獲得した。ほとんど富士スピードウェイしか走ったことがなかったが、スーパー耐久にフル参戦しながら「ここは初めてなので」とは言えない。「とにかく頑張りました」。
だが思ったような結果は出ない。「次ミスったら来年のシートはないぞ」とも言われた。
それでも結果として4度の表彰台を経験し、翌シーズンも継続してシートを確保。ここで田畑氏は精神的に吹っ切れたと言う。「へこんでいてもつまらないでしょう。ここまできたなら楽しんでやろう」。