レース用品の通販大手Monocolle(モノコレ)を運営する阪直純氏(以下:阪氏)。欧州ではメカニックとしての経験を積み、ドライバーとしてはトップカテゴリーで戦い、近年のスーパー耐久ではチームのエンジニアも務める。実業家のみならず、クルマ作りからドライビングまでを一手に担うレースのスペシャリストでもあるのだ。
カートで結果を出しながらも一度はレースの表舞台から身を引き、再びスーパー耐久に参戦した阪氏。実業家として数多くのドライバーたちを支え続ける阪氏に、おもに自身のレース経験を中心に話を聞いた。
16歳で欧州へ修行に
阪氏はラジコンブームが巻き起こった80年代に少年時代を送った。ラジコンに夢中になり、クルマや機械にのめり込んだ。14歳のとき、雑誌で紹介されていたカートを知る。「レーサーになるならカートから始めればいいのか」。中学2年生でカートの世界に飛び込んだ。
時はF1ブーム全盛期の89年。実力者がひしめき合うカートは厳しい競技だった。「もっと速くなりたい」。2年後、16歳で武者修行のために欧州へ渡った。
欧州ではメカニックとして欧州選手権や世界選手権を回った。カート界では、のちにF1ドライバーとなる天才たちがしのぎを削っていた。ヤルノ・トゥルーリ、ジャンカルロ・フィジケラ、ヨス・フェルスタッペン。90年代後半から00年代にかけてのスターたちが、目の前で世界レベルの戦いを繰り広げている。
「最先端のレース環境やセットアップに触れ、最高のドライバーが最高のマシンを作り上げる過程に関われました。この経験が、のちの全日本選手権優勝やスーパー耐久でのクルマづくりにつながりました」。
帰国して国内カート競技に復帰。6年連続で全日本選手権に出場し、96年には悲願の優勝を獲得した。同時にCIK/FIA WORLD CUPにも出場、世界最高峰のカートレースを経験する。
しかし世界レベルの戦いをしながらも97年、22歳の阪氏は4輪転向などはせずカートの舞台から身を引いた。
起業の成功とレースへの復帰
身を引いてからは、仕事をしながら趣味でヴィッツレースやマーチカップなどへ出た。
04年に立ち上げたモノコレは、仕事の中で引き受けた仕入れ業が前身という。エンジニアやレースの経験が活きて国内有数の輸入代理店に成長し、取引先は個人だけでなくレーシングチームやプロドライバーも含まれる。
2018年。親しく取引していたレーシングチームであるテクノファーストから、スーパー耐久のシートへ誘われた。レースは富士スピードウェイで行われる、24時間耐久レースのST3クラス。これが阪氏のスーパー耐久ドライバーデビューとなった。
「ST5・STZクラス車両も含めて、ハコ車のコーナリングは、トップレベルのカートに乗っていればそれほど難しくは感じません」と阪氏は言う。「確かに上位クラスのマシンは速度域が高く、スピードへの恐怖はあります。しかし体感でのコーナリングスピードは、普段乗っているレーシングカートの方が上。特に小さいコーナーはカートの方が圧倒的に難しく感じますね」。