Super-FJ日本一決定戦優勝、スーパー耐久優勝など、「SUPER GTを走る兄に憧れて」では収まらない活躍を続ける元嶋成弥選手。幼少期からサーキットに通っていたエリートのような速さとは裏腹に、4輪競技キャリアが始まったのは2019年と「つい最近」だ。
しかし、才能が芽吹くのは早かった。そこからわずか2年で未来のトップドライバー達を抑えてSuper-FJを制し、3年でSUPER FORMULA LIGHTS(SFL)に乗り込んだ。急成長を続ける元嶋成弥選手がレースにかける想いと、どのようにして急激なステップアップを成し遂げたのか伺った。
怒涛の勢いでSuper-FJ日本一に
兄の元嶋佑弥選手が実家に飾っていたSuper-FJ日本一決定戦の優勝トロフィーは、元嶋成弥選手の憧れだった。とはいえ当時の職業はとび職で、レースとは無縁の会社員。24歳の時点でカートの経験もなかった。
初めての全開走行はレーシングカート。これも兄の影響で、地元のサーキットで開催されているローカルレースに参加し始めた。4輪競技に着手したのは2019年。レース熱が高まり、「モータースポーツで飯が食いたい」と、地元に近いオートポリスのシリーズ戦でSuper FJに参戦し始めた。
翌2020年には転職して地元を離れ、鈴鹿のレーシングガレージ「MYST」に就職。仕事と生活のすべてをレースに捧げる体制が整った

「スポンサーも紹介してもらえ、皆さんに恵まれてレースに専念できました。しかしシーズンの最後に出場した日本一決定戦では、占有走行のタイムがトップから1.5秒落ち。『ヤバい!』と思い、急遽自転車を借りてコースインし、シフトチェンジのタイミングなどを頭の中でシミュレートして速い人の走りをコピーしました。
結果的にポールポジションが取れて優勝できたのですが、今でもなぜあんなに速く走れたのかわからないんです。いずれにしてもあの優勝でレーサーとして一皮むけたことは確かですね。同時に夢だった、兄と同じトロフィーを持ち帰ることができました。今でも最も思い出に残っているレースです」。

日本一決定戦予選での速さはわからないと言いつつも、日頃の速さを支えるカギはブレーキだと語る。
「僕はブレーキングポイント、ブレーキの繊細な使い方を掴むのが早いと思います。クルマはブレーキを離すタイミングで最もよく動くのですが、僕はその感覚がすぐにわかります。特にフォーミュラカーはロールが少ないので、わかりにくい方が多いでしょう。タイムの8割方は突っ込みと速いコーナリングで決まると思います」。
溶接から自分で仕上げた優勝マシンは別のガレージ所有となったが、今も元気にサーキットを走っているのだという。
F4、SFLへステップアップ
2021年にはSuper-FJで日本一になったことをきっかけに、「SACCESS RACING」の坂本氏からスポンサードを受けてFIA-F4とJAF-F4(現:Formula Beat)へ参戦することが決まった。マシンのパワーとダウンフォースが強まるため、首や腕を重点的に鍛えるなど、体力強化に努めたという。
「速度域はSuper FJよりも高くなりましたが、クルマの基本的な動かし方は変わりません。それよりも、F4ではバトルが上達しました。Super FJではむやみに先行するマシンに仕掛けては、後続に抜かれることが多くありましたが、F4では冷静さを保つようになりました。
冷静さは、現在参戦しているスーパー耐久で速度の異なるマシンを抜くとき、次のことを考えられる余裕という形で役に立っています」。


結果的に「モータースポーツの甲子園」と呼ばれるFIA-F4の鈴鹿で3位表彰台を獲得するなど、上位カテゴリーでも実力が通用することを示すシーズンになった。JAF-F4では参戦した全レースで優勝するという圧倒的な速さを見せている。
さらなるスポンサードを獲得して挑戦したSFLには苦い思い出が残るという。
「まずSFLはこれまでとは全く違うクルマで、スピードもダウンフォースも桁外れでした。最初は目が追い付きませんでしたし、体の負荷は倍以上です。体力がなく、クルマに慣れることができませんでした。
数名のお客さんにサポートしてもらって参戦したのですが、資金の限界から2戦しか出られませんでした。SFLは予選のタイムが重要です。資金難で練習もまったくできず、サーキット入りしてすぐ本番だったので、後悔の残るレースになってしまいました」。
