念願のパリ・ダカール・ラリーへ
そして2001年。少年時代から憧れが、ついに現実のものとなった。パリダカへ、ホンダのバックアップを受けて参戦することになったのだ。だがサポートを受けているとはいえ、三橋氏はプライベーター。お金など心配は尽きなかったという。
「エントリーの手続きも全部自分でやりましたし、現地にはメカニックと2人で行ってなんとかしました。振り返れば意気込みと情熱だけで突っ走った時期だったと思います」。
この年のパリダカは、パリをスタート地点とする最後の年度だった。地平線まで広がる砂漠、広大な原野が三橋氏を魅了した。結果は初参戦で総合21位の成績を残したものの、走らなくていいセクションを走るシーンもあったという。
「実はスペインを通過する間、バイクをトラックに載せていいことを知りませんでした。当然のように全セクションを自走しましたが、他のチームはトラックの中で体を休めていました。走る距離を短縮すれば、自分やマシンにかかるストレスを軽減できます。ラリーレイドでは、ストレスを減らしてミスをなくすことが大切なんです」。
パリダカや海外のレースに出場すると、世界のトップライダーと肩を並べて走ることになる。「4輪でいえば、隣にF1やWRCのドライバーがいるようなものです」。彼らと話しともに戦えた日々を、幸運で刺激にあふれた挑戦だったという。
ホンダと契約していた3年間で3度のパリダカに出走。最高で総合12位の成績を残した。
33歳の4輪転向
ホンダの契約が終了した2003年、以降のレースキャリアを検討しているところに日産のドライバーテストの声がかかった。日産からは伸びしろを見込まれて4輪に転向し、4輪でもパリダカに出場を果たした。
初の4輪競技で味わった苦労
4輪デビュー戦となったファラオラリーにはぶっつけ本番で挑み、初日に最後尾を走るなど苦い思い出もあった。もともと2輪専門、4輪転向は目標のうちにも入っていなかった三橋氏は、当初4輪の特性に悩むことになる。自動車乗りとしては当然に感じる環境が、バイクのスペシャリストには新鮮な課題として降りかかった。
「まず2輪車なら360度の視界があるのに、4輪車にはボンネットがあり、ピラーがあり、視界が制限されています。また4輪車は車体が大きい。2輪であれば、カーブの内側を走っていれば曲がり切れなくてもコースの外側に膨らむ程度ですが、4輪車だとすぐコースアウト。見えないし、コースアウトしやすいという車体感覚周りでは2輪との違いに戸惑いました」。
走りに関してはハンドルの「遊び」など、オフロード車の柔らかさに順応することに苦労したという。バイクはハンドルとタイヤが直結しているため、ハンドルを曲げれば車体も曲がる。しかし、クルマはサスペンションとパワーステアリングを介して操作するためにダイレクト感が低い。
練習用にランサーエボリューションを購入し、丸和オートランド那須やモーターランド野沢に通って練習を重ねた。
「挙動を落ち着かせ方やスライドコントロールを学びました。日産の契約金はほとんど練習で使ってしまいました」。
2輪より高いチーム力が要求された
自分でマシンを作り、自分でナビゲーションして、自分で走る2輪とは異なり、4輪はナビやメカニックなど多くの人が関わる。チームワークには大いに苦労したという。
「まず僕の総合力の一角であるナビゲーション能力が奪われました。僕の方がナビゲーションが上手いはずなのに!という場面でよくもめました。クルマ作りにおいても4輪ではルーキーですから、僕の意見はあまり反映されませんでした。ドライビング以外ではチームとのコミュニケーションが苦労の連続でした。そもそも2輪乗りって、他人と交流を持ちたくない人ばかりなんですよね(笑)」。
それでも三橋氏は日産がパリダカから撤退するまでの4年間ドライバーを務め、2007年からはトヨタ車体と契約を新たにし、パリダカへの挑戦を続けた。プロダクションクラスでは5回のクラス優勝を獲得。名実ともに長距離ラリーのスペシャリストとしての地位を確固たるものにした。
速さは契約継続を生み、年々チームとのコミュニケーションも円滑になっていったという。そんな走りの強さを生んだのは、2輪時代にひとりで原野を全開走行することで培ったナビゲーション能力だった。