30年以上にわたって世界のF1シーンを写し続けるカメラマン、熱田護。アイルトン・セナからマックス・フェルスタッペンまで、歴年の王者と、それを追う人々を撮影してきた。紀伊半島のカメラ小僧がF1カメラマンの第一人者になるまでの軌跡と、活動を支える熱量の源泉について聞いた。
鉄道写真からロードレース撮影へ
三重県鈴鹿市出身の熱田氏とカメラの出会いは小学校高学年。鉄道写真好きが高じて、父に名古屋駅へ連れて行ってもらうよう頼んだ。当時大ヒットしていた小型カメラの「ピッカリコニカ」を買ってもらい、近鉄や国鉄の写真撮影に足を運ぶようになる。
アルバイト代で一眼レフを買い、現像を繰り返すうちに写真の世界に没頭していった。そんな中、高校時代に近所の鈴鹿サーキットでバイクのレースを撮影したことで、人生の舵はモータースポーツへと大きく傾いた。当時の興味はもっぱら2輪競技で、現在の職業であるF1の撮影にはあまり関心を持っていなかったという。
「バイクに乗りたかったのですが、当時は3ナイ運動(高校生にバイク免許を取らせない・買わせない・運転させない)の全盛期。憧ればかりを募らせながら鈴鹿に通ってバイクのレースを撮り続けました」。
写真に明け暮れて成績が落ちたまま「好きな写真で食べていきたい」と上京を決心し、東京工芸大学短期大学部写真技術科に進学。学生時代の出会いがのちのキャリアを大きく左右することになる。
プロを目指して上京
東京工芸大学で最初の授業を担当していた、教員の奥村氏は忘れられない恩師になった。伝授されたのはプロの写真家になる方法、レース写真の撮り方など、その後のキャリアを通して熱田氏を支えるスキル。レースの撮影もしていた奥村氏に「オートバイの全日本選手権撮りたい」と告げると、学校の機材なども動員して撮影の手配をしてくれた。行先はSUGO。初めて鈴鹿以外のサーキットで撮影する機会に恵まれた。
菅生での出会いから全日本選手権に帯同
夜行列車で仙台駅に降り立ち、案内所で「菅生」というバス停があると聞いた。しかしバスを降りると周辺は一面の田園風景で、サーキットの面影はない。「なんだここは…」愕然としながら近くで農作業をしていた人に聞くと、30分歩いた先にあるという。炎天下の中、ジェラルミンのカメラバッグを背負って汗だくになりながらたどりついた。
マシンなどを整備するパドックに入場して写真を撮りまくっていると、当時全日本ロードレースのトップカテゴリー、GP500クラスで活躍していた斉藤仁氏に声をかけられる。
「今思えば図々しく近寄っていたのかもしれません。『何撮ってるの?随分一生懸命撮ってるね』と憧れの斉藤さんに呼び止められ、ガレージの中にも入れてもらいました」。
「あ、すみません、お邪魔しました。」
「いや大丈夫だよ、どこからきたの?」
「東京です。今朝電車とバスで来ました。」
「そりゃ大変だったね、今晩はどこに泊まるの?」
「あ、まだ決めてません」
「じゃあ、うちの宿に一緒に来て泊まるか?」
「え!おねがいします!」
「図々しいにもほどがありますが、その晩は宿に泊めてもらい、憧れの人々と食事や会話を楽しみました。帰りはハイエースで東京まで送ってくれました。その後の2年間は斉藤さんの温情で各地の全日本選手権に帯同。雑誌広告にもアルバイトとして写真を使ってもらいました」。
卒業試験か海外レースの撮影か
大学卒業が間近に迫ったある日、アルバイト先の出版社から海外レースの撮影オファーが届いた。撮影に行けば卒業試験に出られない。それでも構わないと思いながら恩師に相談した。
「分かりました。試験のことは私がなんとかしましょう、撮影に行ってきなさい」。
「奥村先生は優しい目で私を送り出してくれました。帰国後に追試を受ける機会をいただき、無事卒業できました。親のお金で通った大学を卒業でき、お世話になった先生に卒業という形で微力ながら恩返しができたと思います」。
マン島TTレースを撮影
卒業後、アルバイトをしながら全日本選手権を撮っていると、世界選手権も撮りたいという思いが募ってきた。アルバイト先である出版社からプレスパスを出してもらい、1984年のマン島TTレースとロードレース世界選手権のフランスGPを目指して渡欧。運転免許も持たずに、現地の人々に助けられながら撮影した。
「無理のある行程で、珍道中ではありましたが、情熱だけで動き回りました。憧れのサーキット、マシン、ライダーを目の当たりにできた感激は今でも鮮烈によみがえります」。
マン島でモータースポーツカメラマンの巨匠、坪内隆直氏に出会い、氏の設立したヴェガインターナショナルに入社。「ヨーロッパの世界選手権をキャンピングカーで回る体験をさせてもらいました」。
まだF1への関心はなく、新入社員時代は国内外のロードレース撮影に明け暮れた。時代は1980年代中頃。バイクブームに日本中が湧き、WGP500ではフレディ・スペンサーやエディ・ローソンなどのスターが火花を散らしていた。
社員からフリーへ、2輪からF1へ
しかし1991年、80年代バイクブームの終焉とともに2輪雑誌は不況に陥る。4年間在籍したヴェガインターナショナルも出版が難しくなり、熱田氏はF1撮影のためにフリー転向した。
F1雑誌をあっせんしてくれたのは、F1カメラマンの第一人者である原富治雄氏。1992年からフルシーズンの撮影を開始した。撮影技術や国をまたいだ移動のノウハウは、2輪撮影時代に培っていた。
「私は幸運な男だと思います。多くの人との出会いで今の仕事にたどり着きました。奥村先生にSUGOへ連れて行ってもらっていなかったら、斉藤選手にも出会わなかったし、斉藤選手と出会っていなければ坪内さんにも出会っていませんでした」。
コロナ禍に翻弄されたF1撮影
2019年末から始まったコロナ禍は、F1カメラマンという職業にも大打撃を与えた。渡航制限、隔離、PCR検査などでサーキットにたどり着くことすらままならなかったという。
「2020年はヨーロッパのカメラマンに優先的にパスが出ました。僕はシーズン後半から許可が出ましたが、移動がすごく大変でした。各国のトランジットやレストラン、ホテルでも陰性証明がなければ動き回れず、PCR検査は200回くらいやったと思います。2021年は全戦転戦しましたが、帰国しても自主隔離があるので欧州に滞在。レンタカーで陸路移動しました。もうレースに間に合わないかもということが何度もありました」。
サーキットに着いても苦労は続く。報道関係者はパドックには入れず、プレスメディアセンター限定。ドライバーの写真を撮れるのは、駐車場からパドックに入る前のほんの数メートルだけだった。ドライバーと話せないためカメラマンは少なく、日本人は他に誰もいなかった。
思わずもらい泣き…これまでで最も興奮した瞬間は
40年以上に及ぶカメラマン人生で最も興奮した瞬間は2021年のF1最終戦、アブダビGPだという。マックス・フェルスタッペンとルイス・ハミルトンがチャンピオンをかけて優勝を争ったシーズンのラスト1ラップ。セーフティカーの導入前にタイヤ交換を済ませたレッドブル・ホンダのフェルスタッペンが、グリーンフラッグと同時に先行するハミルトンを猛追する。
5コーナーでフェルスタッペンがハミルトンのインにノーズをねじ込む。オーバーテイク。そのままフェルスタッペンがハミルトンを封じて初のドライバーズタイトルを獲得した。熱田氏は涙を流して狂喜するホンダのエンジニアたちにシャッターを切った。
「あまりの出来事、雰囲気、表情に僕ももらい泣きしました。この仕事をしていてよかったと心から感じた瞬間です」。
それでも「最高傑作はまだまだこれから撮りに行きます」と、熱田氏は常に上を見ている。
F1の光と影を知っているから魅力を発信したい
「今年(2023年)の日本GPで、私は鈴鹿の130Rでカメラを構えていました。他の選手とは違う、1台だけイン側のラインを駆け抜けていくマシンがいました。狭いラインなのに明らかにボトムスピードが高い。それがフェルスタッペンでした。そのスピードと迫力には圧倒され、心が震えました」。
F1の世界は華やかだ。1991年にはセナの雄姿も収めた。しかしF1を追う者は、事故に遭遇することもある。2019年にはF2のアントワーヌ・ユベールがこの世を去った。今年2023年のSUPER GTで起こった山本尚貴のクラッシュにも立ち会っていた。
「その時の衝撃音、雰囲気は忘れることのできない辛い記憶にもなります。レースにクラッシュはつきものですが、悲しい事故は起きてほしくありません」
最近はF1カメラマンを目指す人が少なくなったという。実際、職業写真家として食べていくのは難しい世の中になった。カメラの出荷台数は右肩下がりで、旅費や機材は高額だ。それでも熱田氏はF1カメラマンという職業の魅力を信じている。
「美しい光の中に包まれながらシャッターを切れた時、初優勝のドライバーの歓喜を目の前で撮影できたときなど、この仕事をしていると多くの感動も味わえます。カメラマンとして、これからも出会うであろうモータースポーツのシーンを切り取ることで、魅力を伝えていきたいと思っています」。
多くの失敗を糧に、気合で次へつなげる
「いい写真を撮るのはどんなジャンルでも難しい。モータースポーツも同様です。『あんなに速いマシンをよく撮れますね!』と言われますが、今のカメラの性能は素晴らしいので、慣れさえすれば誰でもピントの合った写真は撮れます。しかし、広いサーキット中にある光や背景を適切に使い、突然の出来事に適切に対応するのは至難の業です。
考えて動いてシャッターを切っていますが、数多くの失敗をしてきました。『悔しい、情けない』という経験を積み重ねて、写真の完成度を高めています。そして年に数枚、気に入った写真が撮れた瞬間は最高の幸福です」。
サーキットの天候や状況は目まぐるしく変わる。雲間から差す一筋の光がマシンを照らし出し、コース上にスポットライトのステージを作る。スタッフは勝利の瞬間に二度とない表情で湧き上がる。熱田氏はそんな瞬間を切り取り続けてきた。一瞬の判断で最高のレンズを最高の光に向ける。
計算しつくした構図と機材に加えて、一期一会をフレームに収める仕事がF1カメラマンだ。それでも最高の瞬間を逃すことは少なくない。口惜しさを次につなげる座右の銘は「気合」。
「気合がないと行動が伴いません。気合を入れて考えて動くことで、何かを得られる場面に遭遇できます。そして、気合を生むためには情熱が必要です。僕の場合、『今度こそは』という口惜しさが糧。一度満足してしまったら、次に行こうと思わないでしょう」
東日本大震災の復興支援
熱田氏は東日本大震災の翌2012年から、福島県・南相馬市を拠点に災害復興の作業やイベント企画などを行う復興浜団に関与、撮影や写真教室などを手掛けている。復興浜団は2023年も「追悼復興花火」や「なの花めいろ」に多くの来場者を集めた。
「南相馬の人は復興に向けて企業を誘致するなど、前向きに動いています。『興味本位で行くのは申し訳ない』とは思わず、ぜひ来て最近できた資料館を覗いてみてください。国道6号線を走れば今も津波の爪痕を感じられる。ボランティアもまだ募集しています。福島はフルーツが美味しいので、食も楽しんでくださいね」。
モータースポーツ写真を撮る人にアドバイス
「写真は楽しいですが、楽しく撮るためにはいい機材が必要です。モータースポーツ写真を撮るためには、300mm程度の望遠レンズが付いている方がより楽しめると思います。撮影機材選びも楽しみの一つ。自分の予算に合ったもので大丈夫ですが、一般的に値段の高い方が高性能であることは確かだと思います。
最初はうまくマシンの動きに合わせることができないと思いますが、じっくり練習してみてください。回数をこなせば、どんどん上手くなって楽しくなってくると思います。もっといい写真を撮りたくなると、もっといい機材を欲しくなるでしょう。サーキットを歩き回って、好きな角度で撮れる場所を探すのも大事なポイントです。
そうなったらまた頑張って働き、調べまくって可能な限り機材を安く買う。新しい機材を買うとまたサーキットに行きたくなり、新しい構図も撮りたくなる。この繰り返しです。
今は機材がいいので、回数を重ねれば誰でもそれなりに撮れるようになります。上手くマシンをフレーミングできるようになったら、シャッタースピードを変えて流し撮りの練習もしてください。シャッター速度を変えて、絞りを変えて…と試行錯誤してください。そうやって必死にシャッターを切る時間は楽しいものです。
そして、本気でF1をプロとして撮影したいと思ってくれる若いカメラマンが多くなると嬉しいです!」。
世界中を飛び回りながら世界一の舞台を切り取り続ける熱田氏。写真への情熱は常に彼の足をレースへと突き動かし続けてきた。40年以上のキャリアをもってしても「まだまだ」という向上心で、きっと過去最高を塗り替えるような1枚を我々に届けてくれるだろう。