国内最高峰の耐久レースであるスーパー耐久や、KYOJO CUPで活躍する岩岡万梨恵選手は、大学を中退してレースの道を選び、単身で渡米するなど、持ち前の体力と行動力でレースキャリアを開拓してきた。「今度こそは絶対に諦めない」と語る岩岡選手は、今年5年目のスーパー耐久参戦に臨む。今回はその濃密なレース人生を追った。
夢と向き合い直し、マツダ育成ドライバーに
もてぎを疾走するダニカに憧れた中学1年生
3歳の岩岡選手はパパっ子で、クルマ好きな父がレースを観に行くと言えばついていった。当時はサーキットで速いクルマを眺めて過ごしていたが、「男の乗り物だから女の子だと行きづらい」と感じていたという。
モータースポーツへの憧れが本格的なものになったのは中学1年生のとき。インディカー・シリーズがツインリンクもてぎ(当時)で開催された。当時もてぎで優勝するなど、活躍していた女性ドライバーのダニカ・パトリック選手の存在が、岩岡選手のレース欲に火をつける。
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しかし普通のスポーツ少女が中学生からカートを始めて大成するのは難しい。資金的にも現実味がないことを知り、一度はレーサーになる夢を諦めた。しかし、憧れが簡単に消えるわけではない。中学、高校、大学と進学しても、モータースポーツへの想いは募っていた。
高校は器械体操に取り組み、父に「プロを目指したい」と告げるも「年齢的に遅すぎる」と言われて断念。高校卒業後は体育大学に進学してチアリーディングをしていたが、まったく楽しくなかったという。そんな中、休日にF1を現地観戦したことで、一度は諦めたレーサーになるという夢が復活した。
大学中退、TMC入学、渡米
「今度こそは何があっても最後までやりきりたいと思い、大学を中退して東京モータースポーツカレッジ(TMC)に入学。TMCの授業は座学を中心に、年に数回南千葉サーキットや大井松田カートランドなどでの走行実習がありました。授業ではお金のかかり方など、夢を追っているだけでは理想を叶えられないという、モータースポーツの現実も教えてもらえました」。
しかし2013年、TMCは破産する。学内の動向に違和感を覚えることはあったものの、まさか廃業すると思っていなかったため、級友が共有した「校舎差し押さえ」を知らせるスマホの通知にあ然としたという。
突然後ろ盾となるレーシングスクールが廃業し、独力でレーサーキャリアを切り拓かなければいけなくなった。そこで、岩岡選手は在学中から関心を抱いていた、アメリカ・コネチカット州にあるスキップバーバーレーシングスクールに向かった。同校はインディーカーシリーズチャンピオンなどを輩出してきた、由緒あるレーシングスクールだ。
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「スキップバーバーでジュニアフォーミュラのマシンに乗ったとき、『私はフォーミュラに乗っている!』という興奮を覚えたと同時に、ドライバーとしてのキャリアが拓けたような感覚がありました。帰国後もフォーミュラのレースに出たいと思っていましたが、きっかけがわからず、同級生が働いていたカート場『フェスティカ栃木』でアルバイトを始めました」。
フェスティカ栃木ではイベントを手伝い、時折カートに乗らせてもらう日々。毎日働いて貯金を作りつつ、次のチャンスを探しながらその時に備えた。
キャリアの突破口になったMAZDA Women in Motorsports Project
2015年、「自動車業界で女性が活躍できる環境を作る」というコンセプトでマツダがMazda Women in Motorsports Project(MWIM)のオーディションを開催した。1期生として合格を勝ち取った岩岡選手は、山口県の美祢試験場(旧:MINEサーキット)で開催された育成プログラムに参加し始める。
「費用の持ち込みが不要な上に、とても良い待遇で毎月広場での練習からドライビングを学ばせてもらえました。特に基礎から学べたことが大きかったと思います。しかし、成績優秀者が乗車できるメディア4時間耐久レースには選ばれず、悔しさからNA型ロードスターを購入して、自家用車でも練習を始めました」。
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SUGOでのレースを控えていたときには、SUGOの走行経験がないからと5分刻みのスケジュールで、文字通り一日中走り続けた。トレーナーから最後の1枠だけは休んでいいと言われたときには、さながら満身創痍だったという。
「初めての4輪レース出場が叶ってグリッドの緊張感を味わったとき、『やっとここまで来れた』と泣きそうなほど感動しました。その後はがむしゃらに走っていたのですが、ほとんど記憶がありません」。