SUPER GTなどで活躍するレーシングチームとして、またパーツメーカーとしても知られる株式会社サード(SARD)。同社の社長をつとめる近藤尚史さんは、峠の走り屋をへてフォーミュラーレースに挑戦していた、サーキット出身の「叩き上げ」だ。サードではその経験を活かし、営業にメカニック、マネジメントにチーム監督とオールラウンドに活躍してきた近藤さんに、自身について語ってもらった。
バイクとハチロクで正丸峠の日々
近藤さんの子供の頃はスーパーカー・ブーム。スーパーカー消しゴムなどを集めて自然と車が好きになった。その後は男子が歩んでいく王道で、中学生でバンド、高校生になってバイク。そして一番ハマったのがスポーツカーだった。
高校生の頃はホンダのNS-50に乗り、地元の埼玉にある走り屋の名所、正丸峠を攻める日々だった。だが当時盛んだった3ない運動(高校生はバイクの免許を取らない・乗らない・買わない)の犠牲になり、こっそり取得した免許は学校に没収され卒業式の日に帰ってきた。
高校卒業後は専門学校に通いつつ車の免許を取得。CR-XやMR-2が候補にあがるなか、やはりFRだろうとトヨタのAE86スプリンタートレノ、通称ハチロクを購入した。今もクルマ好きに根強い人気を誇る名車だ。これが若き近藤さんの人生を、大きく変えることになった。
バイクから車に乗り替えてからも通っていた正丸峠には、あこがれの先輩がいた。のちにGT300などで活躍する松本晴彦選手だ。松本選手は当時の富士フレッシュマンレースでAE86を操り、開幕戦から3連勝。その頃はすでに峠にはあまり姿を見せなくなっていたが、その活躍ぶりは峠通いの青年をレースの世界へといざなうには十分だった。
「おれもレースがしたい」。想いは日々募っていくが資金がない。峠に通い続けるかたわら、間瀬サーキットの草レースによく出場していた。最初のAE86はすでに壊れ、2台目・3台目になっていた。
初練習のF3で好タイム
専門学校卒業後は、レース資金を貯めるため実入りのいいトラックの運転手を始める。当時はフォーミュラ漫画「F」の影響を受け、フォーミュラカーへの挑戦を志すようになっていた。だがもちろん機会はなかなかない。
そんな時、レース雑誌「Racing on」でアメリカのジム・ラッセル・レーシングスクールを半額で受講できるという企画を見つけ、応募した。当時人気だったワンメイクレースのミラージュ・カップには上位者が同スクールに行ける特典があり、彼らと一緒のツアー参加だった。
スクールではツーリングカーのカリキュラムだったが、その時の参加者はレース上位者など高いスキルを持つ者ばかり。ハコ車では満足せずフォーミュラに乗せろという声が上がり、翌日は受講マシンがF3になった。そんな強者ドライバーがそろう中、近藤さんは初めて駆ったF3で2番手のタイムを叩き出した。
「これはいけるんじゃないか」
好結果に勇気づけられ、フォーミュラへの本格的な挑戦を決意する。そこで入門用マシンとして知られる日産のレーシングカー、ザウルスJrを購入。当時つくばでは走行枠はなかなか取れないと分かり、たくさん練習できる仙台ハイランドに拠点を移した。そして東北のレースに参戦し、ライバルたちと切磋琢磨しながら腕を磨いていった。
工業高校に学び機械いじりが好きだったこともあり、マシンのメンテナンスなどはほとんど自身でやっていた。AE86のエンジンも自身で組んでいたほどだった。ただ好きでやっているとはいえ、プロのメカニックとはマシンに違いが出てくるだろう。それをタイムが出ないときの言い訳にしたくはないと、トップチームからの参戦を決意する。



