ゲーム『グランツーリスモ発のレーシングチーム『NIWA RACING』を主宰する丹羽英司選手は、国内耐久最高峰のスーパー耐久における表彰台の常連だ。仕事を3つ掛け持ちしてカートに乗り、グランツーリスモで練習機会の少なさを埋め合わせた下積み時代、公認レースへの挑戦。いずれの時期も丹羽選手は言い訳ナシの行動力で逆境をねじ伏せ続けてきた。そして今、NIWA RACINGを通して後輩の育成に心血を注ぐ理由を伺った。
トリプルワークで挑んだフォーミュラへの道程
家族はホンダ系部品サプライヤに勤める親と、F1のゲームが好きな兄。丹羽選手はクルマ好きになる条件の揃った家庭に生まれた。20歳のときに、当時人気を博していた『頭文字D』に夢中になったことは、当然の流れだった。
「ハチロク(AE86)でのドリフトに憧れましたが、当時から見ても旧車と言える古さだったので、後輪駆動のドリフト用車両を探し回りました。そこで目に留まったのがNAロードスターです。実際に乗ってみるとこれが楽しい。マツダが掲げる『人馬一体』を体現したようなクルマで、軽くて手足のように動く上に重量バランスも優れていました。今へと続く運転を教えてもらったクルマです」。
本格的なモータースポーツとの出会いは鈴鹿サーキットに併設されていたレンタルカートだった。すぐにカートの魅力にとりつかれ、地元長野の安曇野でレンタルカートやレーシングカートでの走行に没頭した。しかし、当時22歳の若者にとってカートで走りまくることは経済的に苦しかったという。
「早朝は新聞配達、昼は学童で働き、夜はコンビニでアルバイトをしました。仕事の合間にはロードスターで峠に繰り出し、週末はサーキットでカートです。いつ寝ていたのかあまり覚えていないのですが、とりあえず稼いだお金で結婚直前にカートを買いました」。
訪れた転機はレーシングスクールオーディション。筑波サーキットのTC1000で行われたテストに最優秀で合格した。最優秀のスカラシップで入校費用は無料。筑波サーキットのジムカーナ場、恵比寿サーキット東コース、筑波サーキットTC2000と練習場所を点々とした。同時に、日本中を走り回りながらレースに参戦するレーサー人生が幕を開けた。

「スクールは無料でしたが、やはり走り込みにはお金がかかります。数ヶ月に一回しか走れず、他の同期よりもスクールの卒業には時間がかかりました。練習できない分は『グランツーリスモ4』とハンドルコントローラーで筑波サーキットを走り込んで予習。古本屋に通ってドライビングテクニックの記された本を読み漁り、少しでも節約しながら速くなろうともがいていました。
それでもFJ1600(ジュニア・フォーミュラ)で初めてのシリーズ参戦にあたっては親から100万円くらい借金して、年間200万円の参戦費用を捻出しました。
家は長野県上田市にありましたが、レースがあるとなれば鈴鹿でも、SUGOでも、下道で8時間は自走して向かいました。クルマって屋根がついているから寝られるんですよ。これで高速代とホテル代が浮きます。お金がないと悩む若手には、体力にモノを言わせた『下道レーシング』を布教して回っています(笑)」。