REDBULL KART FIGHTなど、世界のサーキットで戦うRacing School GoTakeインストラクター川福健太氏。社会人になってからフォーミュラに挑戦して挫折。そこからレンタルカートの猛練習を経てプロドライバーになるという異色のキャリアを歩んでいる。レンタルカートで日本一になったことを皮切りに、86/BRZ Raceポールtoウィン、N-One Owner’s CupとMINI CHALLENGE CUPでシリーズチャンピオンを獲得。2023年にはスーパー耐久にも出場し、2024年も引き続き出場する。今回は川福氏のレーサー人生について話を聞いた。
頭文字Dからフォーミュラへ


少年時代は父親とF1中継を観る程度だったという川福氏。モータースポーツの世界に引きずりこまれたのは、アルバイト先のガソリンスタンドだった。当時大流行していた漫画「頭文字D」や「湾岸ミッドナイト」を読んでからアルバイトに行くと、そこでは首都高や峠を走ってきた先輩が必死にクルマ代を稼いでいた。
また父は車好きで、マニュアル仕様のアルテッツァが愛車だった。マニュアル車の面白さを知った後は、父が乗り換えた2人乗りロードスターの操縦性にほれ込み、自身もスーパーチャージャー搭載のロードスターを40万円で購入した。


川福氏は走行会やミーティングに出席する中で、レースへの出場を目指すようになる。しかし、スーパーチャージャー付きのロードスターはレースに出られない。そんななかレンタルのフォーミュラーカー「FJ1600」と出会う。
「給料をつぎこめば戦えるぞ」。実家暮らしなことに加えて家族はモータースポーツに理解があった。FJ1600チームのオーディションを受け、レースのイロハは何も知らないままカリキュラムを受けてレースに出た。
しかし、ジュニアフォーミュラの現実が牙をむく。自身は仕事もあるので月に1・2回の練習が限界だが、ライバルは小さいころからカートをやっているエリートたち。練習量も桁違いだ。とても歯が立たなかったという。
自分は中古タイヤなのに周りは新品。もしクラッシュすれば大金が消し飛ぶ。お金と時間の心配ばかりが先行し、純粋にレースを楽しめなかったという。挑戦しようとしたSuper FJによるF1のサポートレースは、「レース時点で29歳以下」という規定によって出場が叶わなかった。
Super FJには苦い思い出を残して、2年間にわたるフォーミュラへの挑戦は終わった。

レンタルカートで才能が花開く
練習量の差を埋めなければ。そう感じた川福氏が目をつけたのはレンタルカートだった。レンタルカートは都度払いで、故障を気にせず全開走行できる。
2011年、埼玉県のカートコース「クイック羽生」で開かれた「可夢偉チャレンジ」に参加。初めてのカートレースだった。
「本格的なのに安く、『ちょうどいい感じ』に楽しめました」。


カートにのめり込んだ川福氏は「自分はどのくらい戦えるのか知りたい」と当時レッドブルが主催していたKART FIGHTシリーズへの参戦を決めた。地区予選の上位2名は全国大会へ、全国チャンピオンは世界大会に参戦できる。
「海外旅行に行ってみたかったので、初海外を世界大会にする、という目標を立てました」。
1年目の13年は東北地方からエントリー。なんとか全国行きの切符を勝ち取るも、全国大会では予選ヒートで脱落した。
「実力が足りなかったし、関東在住なのに東北から出るのも気が引けました。だから来年は関東を正面から突破すると決めました」。
宣言通りに翌年は関東大会を首位通過。しかしやはり全国大会では予選ヒートで脱落を喫する。「今度こそ!」と万全の準備をして臨んだ3度目の15年大会は滑り込みで全国大会の切符をもぎ取った。


「全国に出られたこと自体が嬉しかったので、気張らずに楽しめました」。この大会でついに日本一を獲得、世界大会のシートを獲得した。
そして世界を知る
初めて海外に飛び出した川福氏は欧州勢がレースで強い理由を知る。路面ミュー(摩擦)が低いサーキットで切磋琢磨している欧州のドライバーは、限界領域でのマシンコントロールが巧みだ。
また、ボウリングやカラオケの感覚でレンタルカートに乗ることができ、競技としても人気が高い。年に何回も24時間耐久レースが開催されるなど活気が違う。
「文化としての根付き方が日本とは違う。速いわけだ、と思いました」。
世界大会の結果は17名中6位。表彰台には届かなかったものの、世界大会の実績と経験を手に帰国した。
