JRC(全日本ラリー選手権)3回、PWRC(プロダクションカー・ラリー世界選手権)2回制覇という金字塔を打ち立て、59歳を迎えた今なおJRCの最高位クラスで活躍する新井敏弘選手。日本におけるスバルの象徴とも呼べる男のレースキャリアが始まったのは、国立大学への入学と同時。
大学生、会社員と一般人のようなキャリアを進める中で、新井選手は次第にトップラリーストとしての地位を確かなものにしていく。
身近なラリーへの憧れを叶えるべく自動車部へ
クルマ好きの新井少年はミニカーで畳の縁をなぞって遊び、成長するにつれてラジコンにも手を出すようになった。また、地元の群馬県には赤城山や榛名山といった、往時の走り屋が腕を競う峠道が揃っていた。加えて、育った環境にはラリースト新井敏弘を生むに十分な魅力が詰まっていた。
幼少期から両親と一緒にスキーをした赤城山の山頂には「小沼」という湖があり、当時は「赤城氷上」という氷上ラリーのメッカとして知られていた。平日にはSUBARUが「小沼」を貸し切ってテストドライバーが走行テストを行っていた。新井選手の父もそれについていってはスピンする様子を見ていた。「ついていけるわけないのにバカな親父だなあ、と思って見ていました」。


高校時代に友人が学校に持参したモータースポーツ雑誌「プレイドライブ」との出会いで、ラリーへの憧れが確かなものなったという。大学選びの絶対条件はクルマに乗れることだったが、両親から伝えられた条件は「自宅から通える国立大学」。その条件が揃っている、地元群馬大学の工学部に進学した。
大学に入学すると間もなく試験場での一発試験で運転免許を取得、当時人気のあったAE86を購入して夜な夜な旧道や峠道に繰り出した。しかし、地元のラリーチームに入ると、先輩からは厳しく「一般道では走るな。人の通らない林道で練習しろ」と教えを受ける。
「そのおかげで、実際に一般車両とトラブルになったことはありません。ただし、人の目がないので、犯罪に巻き込まれそうになったりしたことはありました。止まっているクルマの中を覗いたら人が亡くなっている、なんてことも」。
ラリーチームでは先輩から走り方やを教わり、新井選手自身もレースのオフィシャルを務めるなどの経験を積むことでレースのやり方を学んでいった。学生が苦労するパーツ代は、大学の自動車部に所属して古いパーツを再利用するなどしてやりくりした。2年生から通った桐生キャンパスの部室には、古いクルマや不要なパーツが山積みになっていたという。
初めてのラリー、そしてプロドライバーへ
大学生の新井選手は、「走りたくてしかたなかった」という思いを走りにぶつけると早速頭角を現し、群馬県だけでなく、関東選手権や東北選手権に出場するようになる。しかし速さはあっても資金力に苦しむのが学生レーサーだ。月15万円のアルバイト代がすべてガソリン代に消えることもあったという。
「ラリーをしていると修理代が10万円、20万円で済まないこともありますよね。クルマをぶつけたときには落ち込んで『もう続けられないかもしれない』と思ったことが何度もありました。そうやって走る中で『これ以上溝がなくなったらダートでは走っちゃいけないから舗装路を走ろう』など、学びを重ねました」。
親からの資金援助があったわけではないが、同時に「学校にしっかり通って留年さえしなければ勝手にして良い」という方針だったことに助けられた部分があったと語る。

全日本ラリー選手権、WRCへとキャリアを進める原動力になったレースが、群馬県草津市で行われた全日本選手権「モントレー」だ。新井選手は、当時ギャラリーの入場規制がなかったコース脇に足を踏み入れた。2、3メートル先をAE86が、フェアレディZが、スタリオンが駆け抜けていく。新井選手は眼前を走るマシンに感動し、「いつかこれに出たい」と明確な目標が定まった。
「地元の群馬なので現場の道がわかるんです。実際に自分のクルマで走ってみたらスピンしてしまい、『難しい。でもどうしても出たい!』と強く思いました」。
20歳ごろから新井選手のセミプロ人生が始まった。地方選手権への初参戦で表彰台を獲得すると、メーカーから電話がかかってきた。「ウチのパーツを使ってください」。大学生活の後半に差し掛かると、タイヤやブレーキなどのメーカーから消耗品部品の供給を受けるようになり、バブル景気によるスポンサーの積極的な投資も後押しして学生ながらにフル参戦が可能な体制が整い始める。
「当時は地方選手権でいつも優勝争いをしていたので、ステッカーを貼るだけでエントリー費を出してくれるスポンサーが3社くらいいました。また、優勝すると10万円くらいもらえた覚えがあるので、学生でもやっていけたのだと思います」。
会社員ドライバーとしての挑戦
大学の卒業が迫った新井選手は多くのスポンサーを抱えていたが、ラリーだけで生計を安定させるには至っていなかった。そこでクルマに乗れる大学を選んだ受験生時代と同じように、今度はラリーのために週休二日で有給休暇が取得できる会社を探して就職活動を行った。
「当時は当たり前に有給休暇を取れる時代ではありませんでしたし、『有給を取るならその分別の日に働くんだ』という環境でした。だから地元で完全週休二日の会社を狙って就職し、平日に働いて休日にラリーをする生活を始めました」。
地元メーカーの開発部門に就職すると、朝8時に出勤しては日付が変わるまで残業する日々を送った。毎月120時間の残業をこなし、週末もラリーがない日は出勤。そんな約2年半の会社員生活は、全日本選手権へのフル参戦が本格化してくると終わりを告げた。
「お金をもらって全日本選手権を走るようになると、金曜日から会社を休む必要が出てきたので、会社員を続けることが難しくなりました。とはいえラリーだけで食べていけるほどは稼げなかったので、叔父の会社に就職し、ラリーと両立できる働き方を始めました」。
当時いすゞ自動車のオファーを受けてジェミニを駆っていた新井選手は全日本ラリーCクラスのシリーズチャンピオンを獲得し、さらに上のクラスへとステップアップする機会をうかがっていた。時は1992年、初代インプレッサとランサー・エボリューションの登場で4WD車のラリーシーンがスバルと三菱の一騎打ちに入っていた。
いすゞドライバーとして受けた表彰式で、新井選手は人生を変えるSTI(スバル・テクニカ・インターナショナル)との出会いを果たす。



